合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

ジャーナリズムとは「思い込みを事実で覆すこと」であり、活動家とは真逆のやり方のはずである。

コロナ禍の影響もあって、2020年は過去最高のPVを記録したネットメディアが多かったようだ。Zホールディングスの上期決算によると、ヤフーなどの運用型広告の売上収益は前年同期比で19.6%も増えている(下図のYDNは「Yahoo!ディスプレイアドネットワーク」のこと)。

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乱立するメディアの中で差異化する必要もあって、大手ネットメディアは「ダイバシティ&インクルージョン」(多様性と包摂)風の記事を矢継ぎ早に出している。

彼らは、そういうテーマが世の中を良くするという正義を信じている面もあるのだろうが、それだけでなく、ネットでアクセスを取るためにはエロやカネとともに「強いオピニオン」が有効だということを、コロナ禍で実感してしまったのだろう。

意識の高い裕福な消費者にアピールするにも、スポンサー企業はソーシャルグッドなテーマに乗ってイメージアップを図った方がいい。そういうメディアの雰囲気づくりに、フェミニズムやマイノリティの擁護はかなり有効だ。

しかし、オピニオンを前面に打ち出し、事実より優先させれば、それはもう報道とかジャーナリズムではなく「活動家」である。

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もちろんメディアを使った活動家(メディア・アクティビスト)にも存在意義はある。実際自分も、ブラック企業や企業内の理不尽な慣習に対し、活動家的な動きを意識しながら批判記事を出したことは何度もある。

銀行では稟議書に押印するとき、上司に向かって頭を下げるようにやや左に傾けて押さなければならないらしい、と嘲笑する記事を出したときには、多くの読者から「なんだこれ」「バカじゃねえの」というツイートが殺到した。

このような記事の「効果」は、記事で笑ってしまった人や、他人が笑っているのを見てバカバカしさに気づいてしまった人は、もう二度と印鑑を左向きに傾けることができなくなることだ。

ただちにまっすぐ押さなくても、角度をやや弱めることはできる。そのようにして、世の理不尽や不合理を修正していく力がメディアには確かにある。

2020年にあからさまに「活動家」路線に走ったのはハフポストだ。

最近も、トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言がツイッターで嘲笑の的になったとき、わざわざ「原始生活をすればいい」という非現実的な少数意見を取り上げ、そこに気候科学者を引っ張り出して「基本的に無関心な人の反応」とコメントさせる茶番を演じている。

www.huffingtonpost.jp

起きている現象を、事実に基づいて分析する科学的なアプローチからはほど遠い。

わざわざありもしない敵を設定して、そいつは愚かで軽視すべき存在にすぎないと勝利宣言を掲げている様子は、情けないとしか言いようがない。

そこには、新聞社が(単に形式的にではあるが)大事にしてきた両論併記もない。ただの火消し記事であり、典型的な活動家(擁護)記事といっていいだろう。

このような活動家記事が、報道のような顔をして流れてくるようになったのは、日本の社会にとってよくないことだと思う。

いまは広告ビジネス的にもPV的にも調子がいいのだろうが、あまりやりすぎると、新聞が読まれなくなったように、ハフポストもいずれブロック対象になるだろう。

自民党総裁選に出馬した岸田文雄氏が投稿した「夫婦写真」に対し、「強烈な違和感」を示した記事もあった。これはいちおうBLOGカテゴリーに出したものだが、筆者はハフポスト日本版の一員である(しかしなぜかいまは肩書が消えている)。

www.huffingtonpost.jp

記事にはこんな一節がある。

この写真に強烈な違和感を覚えるのは、「政治家の夫を支える控えめで優しい妻を持つ自分」と「そういう妻に感謝する自分たち夫婦の円満な様子」というイメージを、日本のリーダーになる可能性がある政治家が発信することの意味に対して、あまりに無自覚なように思えるからだ。

どんな感想を持とうが自由だが、この写真をもって「性別役割分担意識がどれだけこの国の男女平等を阻害してきたか」を語るのはどうなのか。岸田氏は、普段は大学生と秘書の息子2人と自炊生活を送っており、総裁選の合間に奥さんが久しぶりに食事を作ってねぎらってくれた、というのが事実だ。

そもそもジャーナリズムの役割を「権力の監視」という人がいるが、そんなこと以前に「事実を報じること」というべきだ。

事実に価値があるのは、仮説を検証して確からしさを高めるからだ。わかりやすくいえば、事実は思い込みを崩すのである。

たとえ思い込みであっても、動機が権力批判であれば、事実はある程度犠牲になっても気にしないのが活動家である。一方、ジャーナリズムとは「思い込みを事実で覆すこと」であり、活動家のやり方とは真逆のはずである。

だいたい岸田氏の写真を見て「奥さんが家政婦みたい」なんて、誰だって思いつく。活動家はそれに飛びつき「いかがなものか」と報じて、ターゲットである権力者の足を引っ張る。

これが、これまでの新聞がやってきた「ジャーナリズム」であり、その延長線上にあるハフポストの記事に目くじらを立てる必要はないと思う人もいるかもしれない。

しかし、本当のジャーナリストがやるべきことは「写真では奥さんが家政婦みたいに見えますが、ちょっと調べてみると実はこうだったのです!」と、事実で思い込みを覆すことではなかったのだろうか。

先のブログには、翌日に出された記事のリンクが後に文中に挿入されている。そこでは岸田氏が記者会見で述べた

「あの写真だけを見て『夫婦が対等ではないではないか』という意見は謙虚に受け止めるが、私は平素の生活においても自分のできる家事は分担はしているし、家庭のありようだとご理解いただきたい」

という言葉が紹介されているが、積極的な取材によってブログの思い込みを覆すところまでは至っていない。身内向けの言い訳にも見える、軽い火消し記事だ。

www.huffingtonpost.jp

ハフポはこういう「軽いやけど」をちゃんと教訓にしてくれればいいが、どうも逆に味をしめているのではないかと思う。そして「うちは儲かってるから」とふんぞり返っているハフポおじさんの話をよく聞く。

そんな憂鬱な気分を2020年の年末に抱いたことを、ここに書き残しておこう。