合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

「未来の国では、全員アマチュアの時代が来る」(ロラン・バルト)

YouTubeの醍醐味は、なんといってもアマチュアの投稿だ。

私室の一角で、他人の眼を意識せずに、たったひとりで撮った動画がいい。そして、それをひとり覗き見するようにして視聴するのは、特に楽しい。

もちろん、プロが作り込んだミュージック・ビデオを繰り返し見る楽しさもある。贅沢な体験だ。でもそれは、他の動画配信サービスでもやっていることである。

アマチュアの投稿は、テレビやNetflixなどの動画配信サービスでは見られない。YouTubeでしか味わえないものなのだ。

中でも好物なのは、ピアニストが自室でひとり演奏している様子を、自分で撮って流している動画である。

最近のお気に入りは、Leonhard Deringさんが弾いた、スクリャービンのピアノ・ソナタ4番(1903年)。8分ほどの動画だ。

Deringさんは、シベリア地方のトムスク生まれの29歳。日本の少女まんがに出てきそうな、中性的な雰囲気をもった美しい青年である。

小さめのグランドピアノが置かれた部屋には、アール・ヌーヴォー風のライトスタンドやじゅうたん、カーテンなどの調度品が揃えられ、裕福な家庭ということが分かる。窓からは、世界的な音楽祭が開かれるスイスのルツェルンの緑が見える。湖のある、美しい街だ。

その部屋で彼は、リラックスしきったスタイルでスクリャービンを弾く。

裸足のままペダルを踏み、意外な気軽さで冒頭の和音をポーンと鳴らす。そしてひとつひとつの響きを確かめるように曲を進めていく。

速いパッセージの中の強調したい音を、ときには姿勢を崩し気味になりながら大胆な打鍵で鳴らす。ダイナミクスも極端だ。同じ曲の演奏はYouTubeに何十とあるけれど、明らかにユニークな演奏である。

こういうのを夜中に見つけてひとり聴いていると、ぐいぐい引き込まれて、思わず「ほお」と笑い声が口を突いて出てしまう。心から楽しめる演奏だ、面白い。

しかしルツェルンの彼は、飛行機で12時間以上もかかる極東の島国の中年男が、ニヤニヤして聴いているとは想像もしないだろう。

こういう動画を他人に教えると、どうやって見つけたのかと聞かれることがある。しかし、他の人が手に入れていないおいしいものを、自分だけが手に入れようと思えば、たいがいコツなどないのである。

とにかくひとり、自分自身が手を動かしてトライ&エラーするしかない。思いついた曲名を入れて検索し、アップロード日で並べ替え、数週間前にアップロードされたのに数回しか視聴されていないものも含めて、ひとつずつコツコツ確認していくのである。

数秒ずつ、どんどん視聴していく。冒頭を聴いて面白そうなら、再生バーを中盤、終盤にドラッグして聴いていく。無論ハズレも多い。だが、安心して聴ける演奏を探したいようなやつは、有名ピアニストの名前を加えて検索すればいいだけなのだ。

完全な素人でなくてもいい。名前の知られていないピアニストであってもいい。聴いたことのない演奏が聴きたい。

有名なピアニストでもいいのだ。だがその場合には、誰にも見られていないような環境で、ひとり弾いている、お金を取るお客の前では見せないような自由奔放な演奏が見たい、聴きたい。そんな僕が見たいのは、まさに、あれなのである。

Deringさんは何者だろう。ネットを検索するとコンサートのフライヤーがヒットするように、ヨーロッパで活躍するプロのピアニストのようだ。しかし、少なくとも裸足でステージに上がるピアニストはいない。

なお、アマチュアには素人のほかに、愛好家という意味がある。あの動画には、プロピアニストの彼の音楽愛好家の素顔がある。

個人的には、これをそのままコンサートでやって欲しい、むしろやってくれた方が楽しめる派である。でも、観客の中には 「おい、こっちはカネを払ってるんだよ」 「もっと真面目に弾いてほしいな」 「靴くらい履けよ、プロなんだからさ」 と思う人がいるかもしれない。

彼がメジャーなクラシック音楽レーベルと契約したとしても、こんな演奏を録音することは決してありえない。ベテランのプロデューサーに一喝されて終わりに違いない。なので、諸々のリスクを考えれば、人前でこういう弾き方をする人はいないはずである。

でも、YouTubeなら自由だ。

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未来の国では、全員アマチュアの時代が来る――。この言葉は、村上香住子さんの「メモアール・ア・巴里」という本に書かれている。具体的にはこんな一節だ。

ロラン・バルトを知る人が、一様に証言しているのは、彼が引っ切りなしに退屈する人だった、ということだ。それは子供の頃からの兆候だったらしい。だからそんな彼にとって、いわゆる「プロ」と呼ばれる、退屈もせずに、専門分野にこつこつと打ち込む人間は、ひどく時代遅れに見えたし、彼は「素人」でいることの愉しさを、十分に堪能していた。そして「未来の国では、全員素人の時代が来るはず」とも断言している。

言葉の出典は分からないが、彼女はバルトの知人・友人から話を聴いているので、その中に出てきたのだろう。

ただここでバルトが言う「素人の時代」とはおそらく、いまどきの若い女の子がTikTokで一夜にして何千万もの再生回数を得て、世界的な有名人になることを予言したものではないということだ。

バルトは自らピアノを弾き、特にシューマンを好んだ。そういう、他人に聴かせるためでない、自分だけが作曲家と静かに対話をするような楽しみ方を、彼は「素人=アマチュア=愛好家」と呼んだ気がしてならない。

プロやアマチュアが、自分の楽しみや実験のためだけに録画した動画の中にこそ、物事の愉しみの真髄がある。そして、そんな動画を人知れずこっそりと覗き見て楽しむ行為もまた、バルト的と言えるのではないだろうか。