合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

ショパンコンクール2025の審査基準とは何だったのか?

仕事が山積みで寝るとき以外ずっと座っていたら、脚が細くなってしまった。本当は24時間ジムにでも行って鍛えるべきなのだろうが、寝る前にこれを書いておかなければまた忘れてしまうので(目覚めたらまた仕事だ)。

ショパンコンクール(正式名称はCompetition。野蛮すぎる)が開催されて(原則は5年に1度だがコロナ禍のせいで4年ぶりに)、その期間はYouTubeで生放送やアーカイブを流す生活が続いていた。

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クラシック好きでショパン嫌いな人は案外と少なくなく、普段はあまり聴かないのだが、やっぱりこのコンクールは面白いのだ。

もちろんあらためて聴くと、さすが名曲だけあって聴きどころはあるし、ショパンなくしてドビュッシーもラヴェルもスクリャービンもなかったことがよく分かるのだが、

面白さの最大の理由は、限られた曲をいろんなピアニストで聴き比べできるからだ。コップの水でさえ、何種類か飲み比べればその違いについてつい分析したくなり、順番をつけたくなるものだろう。

新しいピアニストの個性と出会うことも楽しい。こんな人もいるのか知らなかった、という驚きである。単に自分が無知だっただけの場合がほとんどだが、コンクールの場で初めて真価を発揮して一気に注目される人もいる。

全体的に水準は高く、審査結果は大変興味深いものになった。過去には審査委員長が「大切なのはショパンを知り、ショパンになりきること」とインタビューに答えており、いわゆる「ショパンらしさ」が審査基準になるという見方が根強い。

ontomo-mag.com

「ショパンらしさ」を目指すためには、自然と「ショパンらしさとは何か?」を自問しながら演奏することになる。集中力を高め、ショパンになりきり、作曲者の孤独に思いを寄せ、感情を高ぶらせる。中川優芽花さんのように演奏中に涙する人もいた。

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今回のファイナリストでいえば、5位のPiotr Alexewicz(ポーランド)や6位のWilliam Yang(米国)、入賞しなかったがファイナルに残った進藤実優さんやDavid Khrikuli(ジョージア)は「ショパンらしさ」追求型だったように思う。

YouTubeで視聴数が多く、ファイナルに進めなかったことへの不満コメントが渦巻いた牛田智大さんなんかもその典型だった。

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3位のZitong Wangは、基本的に「私は私の道を行く」型だと思うが、3次予選の葬送ソナタが高評価を受けたとしたら、あれも「ショパンらしさ」のひとつだったと思う。

4位の16歳Tianyao Lyu(中国)は、悩める男性ピアニストとしてのショパン本人とはまるでかけ離れていたが、華やかなサロンの住人という意味では「ショパンの世界」の子だったかもしれない。

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しかし、実際に最上位の賞を獲得したのは、そういう人ではなかった。そこには「ショパンとは何か」の対極にある「これもショパンである」型と言えそうな演奏が並んでいた。特に1位のEric Lu(米国)、2位のKevin Chen(カナダ)、5位のVincent Ong(マレーシア)はそうだった。

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牛田さんのような「なりきりショパン」のロマンチックさ、儚さのようなものがない。楽譜には忠実だけれども「いわゆるショパン」の世界に没入することなく、先入観から距離を置きながら可能性を探っているようだった。

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彼らは演奏中に、表情をあまり変えることがなかった(意地悪な言い方をすると「顔芸」をあまり、またはほとんどしていない)。

ネットには、EricやKevinを「こんなのはショパンではない」と酷評する人も少なからずいた。ポーランドのニュース・評論サイト「wPolityce.pl」は、元ヴロツワフ音楽大学学長のマレク・ディジェフスキ教授のコメントを掲載している。

ショパン・コンクールの創設者であるジュラウレフ教授が約100年前に掲げた使命は、ショパンの楽曲の演奏にふさわしいスタイルを確立することです。もしコンクールが、このスタイルとは正反対とも言えるエリック・ルーのような人物を選出するならば、それはその使命を裏切ることになるでしょう。

Burza wokół wyników Konkursu Chopinowskiego. Błąd systemu?

しかし流し聴きをしていて耳を奪われるのは「これもショパンである」型のピアニストの演奏だった。

彼らがことさら奇をてらった弾き方をしていたのかというと、そうではないと思う(異論はあるかもしれないが)。やはり単に他人と違うというだけでは、面白いなと納得させられることはない。

これは確かに言えることだが、ファイナルに残るようなピアニストは、何をどうとでも弾けるテクニックを持った人たちである。

一般の世界に言い換えると「使い切れないほどカネを持っている人」と同じだ。尽きることがないカネがあるとき、人は何にどう使うのだろうか。問われるのは「思想」である。

同様に、何をどうとでも弾ける人たちの集まりで、同じ曲を弾いてここまで違いが出る理由も「思想」であるに違いない。もちろん思想を具現化するテクニックも重要だが、この曲をこう弾きたいという「思想」がいかにユニークで説得力があるかが、ほぼすべてではないかと聴いていて感じる。

今回の審査員は結局のところ、「ショパンらしさとは何か」より「これもショパンである」という思想のユニークさ、説得力を優先して選んだと思う。音楽家や熱心な音楽愛好家は、どうしてもそういうものを選んでしまう種族ではないだろうか。

なぜピアニストは、200年近くも前に書かれた古い楽譜を後生大事に演奏しているのかというと、現代においてもその作品の新しい可能性を発揮させたいと考えているからにほかならない。ということは、やっぱり「これもショパンである」という新しい「思想」がピアニストには必要なのである。

 

コンクールを聴いた素人の個人的感想としては、日本人奏者には批評性が足りない。批評性といっても、ではEricやKevinが他のピアニストが弾くショパンをことごとく聴き漁り、それらと比較のうえで異なるスタイルを探し出してきたのかというと、そういうことでもなさそうなのが難しいところだ。

弾こうと思えば何をどうとでも弾ける人たちが、他人がどう言おうが「結局は自分にはこうとしか弾けないのです」という道を見つけることが、ピアニストに欠かせないことであるし、それが聴衆の楽しみや喜びにもつながるのではないかと思う。

danro.bar

しかしそんなことをして、果たしてプロのピアニストとして生きていけるのか。やはり多くの人の共感を得るには、「ショパンらしさ」を聴きに来る大衆に「ショパンらしさ」を与えていかないと食べていけないのではないか――。

ショパンコンクールの聴衆賞(現地投票)の1位が、審査員が5位に選んだPiotr Alexewicz(ポーランド)だったことを考えると、やはり彼の「ショパンらしさ」が支持された結果なのかなと思う。これ自体は何の問題もなく、入賞を果たせなかったDavid Khrikuli(ジョージア)の演奏とともに、むしろ必聴だと言っていい。

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ただし話はこれで終わらず、聴衆賞の2位は驚くことに同じく5位のVincent Ong(マレーシア)だった。今回のコンクールで最大の「これもショパンである」型の個性的な演奏をした彼が、ポーランドのピアニストに次いで上位の聴衆賞を取ったことが、最も注目すべきニュースではないだろうか。

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なお、彼はいまドイツのハンス・アイスラー音楽大学ベルリンで学んでいるが、マレーシアの自宅にはピアノがなく、練習するときには学校に行かなければならなかったそうだ。

ピアノを弾く前や弾いた後に、楽譜を見ながら、あるいは頭の中で音楽を鳴らしながら考える時間が、他のピアニストたちよりも長かったに違いない。

秋山和慶先生と東京交響楽団

年末に第九を振った秋山和慶さんがお正月に電球を交換しようとして転倒し、頚椎を痛めて引退を発表してまもなく、肺炎で亡くなって多くの日本の音楽家が追悼しているので、思いついたことを書いておきたい。

秋山さんといえば、ご自分が中2(14歳)のとき、まだ大学生(20歳)だった小澤征爾さんの指揮っぷりに感動して、自分もオーケストラに入れてください、ラッパでも太鼓でもやりますから、と言いにいったら、師匠の齋藤秀雄のところに連れて行かれて「先生、こいつ指揮やりたいんだって」と紹介されたのを機に、斎藤門下に入ったという逸話がある。

ところで、小澤さんがなぜ日本人なのに西洋音楽の世界であれだけ有名になったか、ということは彼の没後何度も聞かれたけど、個人的な意見としては、

 「戦後のクラシック音楽界はもはやヨーロッパの古典音楽ではなく、コスモポリタンなスペクタクルの世界に入っていたから」

という答えが一番しっくりくるのではないかと思う。要するに、サウンドをポルシェのようにピカピカに磨き上げるカラヤンであり、ミュージカルも作曲するアメリカ人のバーンスタインであり、ほとんど「スターウォーズ」のサントラの世界である。

小澤さんはそこにうまくハマった。古いクラシックの、例えばフルトヴェングラーの精神性みたいなものは薄れているが、(インド人のズービン・メータなどと一緒に)非西洋の世界の血を入れることが、彼らが活性化し延命するために必要だったのだろう。

さらに言えば、小澤さんは海外の人から見てもハンサムで、陽気で好かれる性格だったのが非常に大きいと思う。特にフランスとアメリカで人気があった。ドイツやオーストリアでは(振りすぎる傾向もあってか)本領は発揮しにくかったような気もする。


で、秋山さんはそういうスペクタクル系の音楽を理想とする人ではなく、そういうトレンドには乗らなかった。

ことさら18~19世紀ヨーロッパのスタイルに沿ったとは感じられないが、現代的な日本人として非常に誠実に、作品を本来の形で完璧に演奏することを目指していた。その姿勢は著作「ところで、きょう指揮したのは?」というタイトルにあらわれているように、ほとんど匿名性を志向していた。

キャリアのスタートも恵まれていたとはいえず、大学卒業後に東京交響楽団に雇われたものの、まもなくオケが経営破綻して楽団員の自主運営になり、それからは唯一の専属指揮者兼音楽監督としてあらゆる曲を勉強して(当初はほぼ無給で)振っていたという。

その精緻な指揮ぶりが知れ渡り、ベルリン・フィルから招聘を受けたが、「東響の仕事が先約に入っていたので」断ったという誠実な人柄を示すエピソードもあった。とはいえ、他にもいくつもの有名な海外オケから呼ばれていた。一方で、日本のアマチュア楽団の指導もたくさんしていた。

僕が学生のころは、東響と秋山先生は「題名のない音楽会」(もともと食い扶持がなくなった東響を食わせるために黛敏郎さんが作った番組)の裏方でアルバイトをしていたときに、よくお見かけした。当時は大谷康子さんがコンミスで、熱意はあるけど、楽団のレベルとしては在京主要オケより落ちるという見られ方をされていたと思う。

ところが、いまはどうだろう。スケールはN響や読響、都響にはかなわないかもしれないが、非常に独特な温かい音色を持つ、世界的に見てもハイレベルな個性を持つオーケストラになった。個人的にも最も好きなオケのひとつと言っていい。少なくともN響より好き。

東響がそのようなオケに育ったのは、秋山さんの後任で音楽監督になったユベール・スダーンやジョナサン・ノットといった一流指揮者の薫陶を受けたおかげが大きいが、楽団が辛いときにも秋山先生が丁寧な音楽づくりをしていた資質が、いま開花しているといってもいいのではないかと思う。

そういう方なので、いまネットで秋山さんを追悼する声が、小澤さんよりも多いのではないかと思えるほど目に付く(特にプロの音楽家から)のは、急逝ということもあるだろうけど、本当に尊敬された方だったからだと思う。

上の動画はサイトウ・キネン・オーケストラ。ブログのタイトルが「秋山和慶先生と東京交響楽団」なのに、この組み合わせの動画がYouTubeにあがっていないから。東響の歴史を振り返るダイジェスト動画にも、もっと前面に出てきていいはずなのだが。

YMOとは「松本民之助をコンピューターで演奏する試み」

2024年から2025年にかけての年末年始に、坂本龍一関係の雑誌特集がいくつか出てたのでまとめて立ち読みしたが、食指が動くものはなかった。

たぶん雑誌の編集者が、普通のYMOファンの爺さんと、CMくらいでしか坂本を聞いたことのない若者だけだったからではないか。

brutus.jp

そもそも全体的に、対象に食い込もうとする熱意が薄い。まあ、いまどきはマニアックに走ると売れないから、あえて薄いカタログで止めておくのを良しとしているのか。

誰かカネとヒマをくれたら書くのだが、坂本に限らずクリエイターというのは、自分が本当に影響を受けたものや創作の源泉を自ら明かさないものだ。特にかっこつけの坂本にはその傾向が強い気がする。

例えば、公式にはドビュッシーの影響を強調するが、作品やコンサート動画を見るとラヴェルへの憧憬の方がはるかに強い(おそらくドビュッシーは「古典的な和声の感覚を打破してくれた作曲家」の象徴的存在なのだとは思うが)。

またインタビューでは一度だけ、子どものころに師事した作曲の先生として「松本民之助」の名前を出しているが、松本民之助が何者か掘り下げた人は1人もいないし、雑誌記事の沿革部分でも名前すらふれられていない。

しかしよくよく調べれば分かるが、坂本の作曲メソッドと思想は松本をはじめとする戦後芸大作曲科の伝統そのものであり、(特に初期の)YMOとは(乱暴に言うと)実は「松本民之助をコンピューターで演奏する試み」なのである。

もちろん坂本も偉いのだが、それ以上に「それ(で)いいじゃん」といって乗ってしまった細野さんがすごい。

細野さん自身ももちろんすごいけど、坂本のこのやり方にOKを出した細野さんのプロデューサーとしての偉大さは、何度繰り返しても足りない。

この「東風」の冒頭はまるでバルトークだ。バルトークの影響もかなり大きいと思う。そもそも、日本の民俗的要素と西洋の和声をどう組み合わせるか、ということは、松本民之助を含む「戦後芸大作曲科」のテーマのひとつだったはずだ。

とはいえ、戦後芸大作曲科とは何か、についてこれ以上掘り下げようとすると結構大変そうなので、誰かこのあたりについて語ってくださる方がいるとありがたい。

雑誌に戻ると、人間は自分が見たい他人の側面しか見ないから、みんな松本民之助を飛ばして書く。そして一度も真面目に聞いたこともない「ドビュッシーの影響」などとしたり顔で書く。

虚しくまったく意味のない誌面ができあがる。「おまえらが知ろうともしない坂本龍一。」を書いてやろうかと言いたくなる。

aiko「詞がメロディを呼ぶ」(「EIGHT-JAM」2024.9.15)

こないだの「EIGHT-JAM aiko特集」(テレビ朝日系・2024年9月15日(日))は結構な神回だったのではないか。aikoの音楽性の本質に迫る発言がかなり多く聞けた。この番組のスタッフはかなりの音楽好きに違いない。見てない人もいるかもしれないので一部文字起こしを載せておこう。全部網羅していないのはご容赦を。

「おんなじ歌詞のメロディー違いの曲がいっぱいある」

安田 パワーワードやキラーワードに対して、たぶん、メロディーのハメ方が素晴らしいと思う。

やっぱ、あの「毎日何回触ってくれているの?」(「愛は勝手」2018年)って言葉って、どう付けたらいいんだろう、っていうのがナチュラルにできてる、っていうんですかね、aikoさんの場合は。

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aiko いつも詞先(しせん)なんですけど。詞が、こう、メロディを呼ぶ。

安田 やっぱり、言葉やフレーズが音符を持ってたりするってことなんですかね?

aiko そうですね。「好き」と「嫌い」でイントネーションが違うみたいに、メロディも違う言葉が出てくる。音階が。

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(VTRナレーション)事前にaiko本人が自らあげてくれたのが、歌詞がメロディーを呼んでくれたというこの2曲。

「蝶々結び」(2003)について、aikoは、

サビ(の直前の「抱いて、抱いて」か?)でスゴい転調をするんですけど、それがスゴく気持ちよかった。歌詞の「過去にも」ってフレーズがあのメロディーラインへ連れていってくれたみたいな感じ。

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さらに、歌詞を印象的にしたい、という想いがメロディーを生んだ、と語る曲が「ハニーメモリー」(2020)。

「君がいないと味がしない」っていうことを言いたくて、そのフレーズを印象的にしたいと思っていたら、このメロディーラインを呼んでくれた感じ。

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そして作詞にも、こんなヒミツがあるそうで(スタジオへ)

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村上 (歌詞を)書きながら添削、整えていくなかで、当然細かい言い回しも変えていったりしていると。

aiko 変えない。

会場 ええ?(騒然)

いきものがかり・吉岡聖恵 メロディーと歌詞がうまくハマらないとかは起きないんですか?

aiko そう…あ、ハメる。

村上 え、メロディーをハメていくんですか。

aiko メロディーをハメていくんです。

丸山 それで複雑なコードになっていくんや。

古田新太 そやな。

aiko そう、なんかいろいろ行きたくなっちゃうんですよ、そう。

会場 ええ…(騒然)

吉岡 そうなんだ…。じゃ、余すところなく歌詞を使うっていうか。

aiko 使う。だいたいなんか、一番くらいの歌詞をバーっと書いて、その言葉で曲を作って、いちおう譜面台にその歌詞を置いておくと、色んなパターンの曲ができるんですよ。で、その中で一番自分がドキッとしたやつを、スタッフの方に聞いていただく。

会場 ほお…(呆然)

サバンナ高橋 じゃ、おんなじ歌詞のメロディー違いの曲がいっぱいあるということ?

aiko あります。

会場 すご…(騒然)

村上 じゃ、(曲作りで)追い込まれたことはないんですか?

aiko あんまないです。

「あんまりビブラートはかけないようにしてる」

吉岡 「Loveletter」(2013年)でなぜビブラートを使わないのですか?

サビの「何度も何度も」は普通、皆ビブラートをかけたくなる。実際ビブラートをかけてしまった方が簡単だが、aikoさんはおそらく地声と裏声のミックスボイスで歌っている。ビブラートをかけないのが潔くてカッコイイと思う。

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aiko あんまりビブラートはかけないようにしてるのを、決め事としてあるかもしれない。ビブラートをかけると、伝えたい曲の景色が変わっちゃうんですよね。

自分の曲に対するテーマが「強い」「悲しい」「切ない」、その気持ちをすごい大事にしたくて、ビブラートをつけると広がる感じがして、あんまりかけずに行けるところはかけすに行きたいなと。(言葉を)強く残したくて。

SHISHAMO・宮崎朝子 それってあれなんですかね、きれいになりすぎちゃう、言葉じゃなくて音楽になりすぎちゃう、みたいなことなのかな…違いますか。

aiko そうですね、そうそうそう。

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(VTRナレーション)「うん。」(2018)の歌い方についてaikoは、

すごいハイトーンボイスの曲で、歌詞の「あなたにー」と長く続けるのを、同じ音量で、1本のホースみたいにぎゅっと具が詰まった声が出せるよう一生懸命頑張った。ビブラートを使うと全然違う曲になっちゃうから、気をつけようと思った。

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「カブトムシ」はスタジオ3つくらい変えた

吉岡 「カブトムシ」(1999)のレコーディングは過酷な環境だったのでは?

声の感じとかが、切なさでなってるのか、結構、他の曲と比べてややハスキーに聴こえるんですよね。

最後の「生涯忘れるーーー」は1回息になって、ブレスを強調して弱くなったところから、「ことはないでしょう」で強くなってグーッとスゴく長く歌う。常人ではたどり着けない、か細くて高いトーンから、最後は決意したかのように強いところにいく。 当時ってどんな感じでレコーディングしてたのかなって。

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aiko めちゃくちゃ過酷でした。「カブトムシ」はスタジオ3つくらい変えてレコーディングしたんですよ。ヴォーカルの音の鳴りとか、そういう、これっていうものを求めて。

村上 aikoさんの中でイメージが合致しなかった?

aiko いやそれが、私はまだこのころってデビューして間もないころで、4枚目のシングルだったので、ちょっといまいち「カブトムシ」がシングルに選ばれた理由とかが分からなかったんです。

でもスタッフの方が「これで行こう」と言ってくださって、レコーディングしたんですけど、みんながみんなで求めている「カブトムシ」の声に行きつかないというか。 気づいたら60、70…80(回)くらい歌っていて。

「カブトムシ」イップスみたいになって、「生涯~」の「い」が出なくなっちゃって。レコーディングのときは必死に歌ってたんですけど、そういう意味もあって声もかすれてきてて、全然何が合ってるのか分からない、必死に歌っているっていう状態。

その後、ちょっと「カブトムシ」が苦手になってしまった。

ほかにも

ほかにも「嘆きのキス」(2010年)の「繰り返し涙が落ちる音を静かに聞いていたあの日」という歌詞の裏話とか。

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「ばいばーーい」(2021年)の歌詞を書いていたら長くなりすぎて、THE 虎舞竜の「ロード」みたいになったとか。

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SUPER EIGHTの安田くんと横山くんとaikoによる「星の降る日」(2024年)のセッションとかもあった。安田くん、むっちゃ歌うまいというか、音楽に向き合う姿勢が真摯で、ミュージシャンとしてレベル高くてびっくりした。

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「読書は他人の声を聞くこと」という三宅香帆への疑問

3人に2人が本を読まない、という調査結果について、三宅香帆がNHKで優等生的な結論ありきの、あまりにも浅いコメントを出していて、無意味で見ているのがつらかった。

www3.nhk.or.jp

「読書で得られるような自分に関係ない情報を『ノイズ』として感じてしまう社会になっている」

いやいや、自分に関係ない聞きたくない情報が耳障りな雑音なのは、昔から変わるはずがない。いちいち社会なんて持ち出すな、と言いたい。

「読書は他人の声を聞くことだと思う」

いやいや、本を読んでる人が、すべて他人の声を聞いているとはとても思えない。そんなのに耐えられる人は極めて稀だ。

自分に都合のいい声しか聞かない人の方が多いに決まっている。むしろ自分に都合のいい声しか耐えられないやつこそ(中身が想定できる)安全な本を選んで読んでいると考えた方が自然だろう。

安易に「他人の声」とかいうやつは、たいがいその苛烈さに鈍感だ。心理的安全性が確保された環境で生まれ育ってきた人は、“本質的な他者”を舐めている。

少なくとも他者とは、単なる自分以外の善良な市民のことではない。ときには理不尽かつ暴力的に自己を足元から(あるいは頭ごなしに)否定しにかかってくる、極めて不快で受け入れ難い存在だ。だからこそ他者なのだ。

それをあえて受け入れて、自己を変容させるなんていう不快さに耐えられる人など、ほとんどいない。特にそんなことが苦手そうな本読みが、軽々しく「他人の声」などと言うのに呆れる。

その手の、自分に不都合な「他人の声」なら、本よりもネット空間にたくさん転がってるよ。

他人の声に耐えられる人とは…例えば自社媒体の創刊10周年という来賓が立ち並ぶおめでたいパーティの席で、

「J-CASTニュースは大マスコミ朝日新聞が肛門から捻り出した様な人材が作ったクソのようなメディア」

と祝福した山本一郎氏に対し、

「(自社キャラクターの名前を)カス丸じゃなくてクソ丸にすればよかったな!」

と爆笑した蜷川真夫社長のような人を言う。

まあ、山本氏の祝辞は全文を読めば愛情に満ちているので、蜷川氏にとって本質的な他者でなかったかもしれないが。

ただ、2ちゃんねるで揶揄されていた「Jカス」は、J-CASTをもじった蔑称で、カス丸の名称はそれを逆手に取ったものだった。

本好きの「繊細さん」たちに、そんな芸当ができるとは思えぬ。

あるいは1999年4月に東大総長として、

「社会とは、いくつもの齟齬感や、違和感や、隔たりの意識が複雑に交錯しあう苛酷な空間にほかなりません」

などとしたためた長大な入学式式辞で出席者の大顰蹙を買った蓮實重彦氏の難解な本でも読み解こうとするならまだしも、そこらの自己啓発書や通俗小説を読んで「他人の声」も何もあったものではないだろう。

いや、本をそういうエンタメで読むことが悪いと言っているのでは決してない。むしろそれが自然だろうと言っているのであって、本だけがあたかも「他人の声」であるかのように扱うのが不正確で、現代におけるコメントとして不誠実と言いたいだけだ。

それにしても「本読み」が自らを特権的な地位にいるとみなす過剰な自己評価の高さは、どこから来るのだろうか?

2025.2.12追記

三宅香帆の本が新書大賞を獲った。

store.kinokuniya.co.jp

これは完全に予想できたことだ。

なぜなら、斎藤幸平の稀代のクソ本「人新世の「資本論」」(集英社新書)のヒットに火を点けたのは、ほかならぬ2021新書大賞だったからだ。

三宅香帆の「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、「働かずに本を読んでいたい」からの「資本主義社会はクソ」で斎藤幸平と一致する。

さらに正確にいえば、本屋に屯っている本好きの「人生がうまくいかない」→「働かずに本でも読んでいたい(傷つきたくないから)」という人たちをターゲットに出したのが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」、というのがこの本のマーケティング・ロジックといっていいだろう。

そんな三宅香帆がわざわざ「本を読むことは他者の声を聞くこと」と言ってるのは明らかな欺瞞で、「本を読むことは自分を慰めてくれるような他者っぽい声を聞くこと」という意味でしかなく、むしろ「本物の他者」の声を遠ざけるための行為でしかない。

別に三宅香帆を目の敵にしているわけではない。

書店を「人生がうまくいかない人たちが、資本主義を目の敵にして、傷を舐め合うような場所」にとどめておきたくない、という気持ちが強い。

新書大賞の選考者は「有識者、書店員、各社新書編集部、新聞記者など新書に造詣の深い方々100人」である。

そういう人たちが、本屋を「反資本主義(という名の正義と良心)の砦」「反資本主義者のサンクチュアリ」にしようとしている――。それに加担し、沈みゆく船のうえで自分の居場所を確保しようとしている人たちがイヤなのである。

「本好きの本好き嫌い」の話

「ネコ好きのネコ好き嫌い」――。なんて言葉があるかどうかは分からないが、どうも僕はネコ好きよりイヌ好きの人の方を信用しているというねじれがある。我が家の2匹のネコは愛してやまないのだが、一種の自己嫌悪だろうか。

同じように「本好きの本好き嫌い」でもある。ブックカフェを構想するにあたって、いろんな古本屋をまわって店主の話を聞いたり、古本屋の発言が書いてある本を読んだりしたが、たいがいは気に食わなかった。

一番イヤなのは「本に囲まれていると幸せ」というやつで、それも「ここにある本はほとんど読んでいない」となると、もう頭に血がのぼってしまう。よくそんなものを売ろうとするよな? どんな商売だって自分が売る商品の魅力を十分理解し、それをお客に上手にアピールするではないか。

その程度のことを怠るから「本屋はオワコン」と言われるんだ。いや、オワコンなのは本屋ではなくお前なのに。そのくせ「本が売れない売れない」と嘆く。そりゃそうだよな、売る努力もしないんだから。

ただ、売れないと嘆いている人はまだマシで、配偶者のヒモみたいな生活をしてるくせに「いや、別に売れなくてもいいんですよアハハ」とか言っているのを見ると、他人ごとながら搾取されている陰の人が気の毒になってしまう。

スマホもネトフリもない時代なら「別にそんなにたくさん売れなくてもいい」がダンディズムとして成り立つのかもしれないが、いまの時代にそんなことを言っていても何の美学も感じない。ハナから売れるわけのないものを並べているのだから。それも(繰り返すが)中身を「読んでない」というんだから、知的コンプレックスをインテリ風アイテムで覆い隠そうする様子が鼻につくだけだ。

いや、たぶん「疎外され居場所のなかった私は、本に救われた。だから今度は、私と同じような人が救われるような本屋にしたい」とでも言うんだろうな。まあ、富豪が自腹でやるならいいんだろうけどね。

仲俣暁生さんが面白いことを投稿していた。彼が書いた『橋本治「再読」ノート』が、あるツイート(ポスト)をきっかけにネットで売れたらしい。

テキストに辿り着いてもらうためには「声を上げ」ざるを得ず、ただ黙っていたのでは読まれもしない。でも呟きは呟きでしかないから、本の中身の1%も伝わらない、あるいは決定的な誤解をもたらすこともある。本を読んでくれ、そこに全部書いてある、と声を枯らして叫んでもダメで、効果的な一言は、そうした率直さとはまた違う、芸やひねりが必要になる。

https://x.com/solar1964/status/1814023333773795769

仲俣さんほどの人が「決定的な誤解」を恐れているのはどういうことなのか、と訝しく思ってしまうが、「芸やひねり」という点には心から賛同する。

これに絡めて、ブック・コーディネーターの内沼晋太郎さんが「話しながら本を売る一時間」という企画を行い、成果を上げたらしい

開店直後の11時、ふだんならぜんぜん人がいないこの1時間だけで、本が5万円以上売れました。急遽立ち上げた企画でしたが、可能性を感じました。
 一日を通じても、ひそかに目標にしていた過去12年で最高の書籍売上を達成しました。

https://x.com/numabooks/status/1815945571024220438

具体的なやり方は「話しながら本を売る1時間」というB&Bの配信イベントの一部で、Zoomのウェビナー機能を利用したようだ。

で、仲俣さんは関連ツイートをnoteにまとめていて、最後に「著者が黙っていても本が着実に売れる本屋という場所の偉大さ」と書いていた。

note.com

確かにそういう側面もあるけど、しかしそこはあんまり持ち上げてもしょうがないだろう、と個人的に思う。人がひとりでコンテンツと向き合う場は無数にあり、もはや本だけの特権ではないからだ。

本屋とは、本を売るために店主が普通の商売としての工夫努力をする場、ということが常識になってほしいと、本屋好きとして希望したい。

「Cloudflareで取得したドメインを、はてなブログに設定したいんですが」

うちの老オス猫がリビングでうんこするようになって弱っている。小さい頃から手間のかからない子だったのに。とにかく呆れるほどデカい。俺でもこんなにデカいのはできないと思うくらいで、本体の倍くらいの長さがある。それも切れずに一本につながっていて(略)

先日の三連休、何もしないでひたすら寝てばかりいたのだが、最終日の夜、ChatGPTを開いて尋ねてみた。

「Cloudflareで取得したドメインを、はてなブログに設定したいんですが、設定の方法って教えてもらうことできますか?」

ChatGPTは「以下の手順に従って設定してください」と明快に答え、手順を教えてくれた。

実は数年前に有料のはてなブログProを契約して独自ドメインで運用し、ドメイン取得には「お名前ドットコム」をはてなに推奨されるがままに使ったのだが、アップセルだかクロスセルだか知らないが、SPAMなメールやLINEが山のように来てたまらず解約した。

Proも解約し、元のはてなブログに戻ったのはいいが、今度はGoogle検索にまったく引っかからなくなってしまった。

まあ別に他人に読ませようと思って書いているわけではないのだが、検索結果に表示される粗悪な記事の順位を下げるために書いているものが何本かあり、それが消えることで敵がトップに上がってくるのは癪である。

ということで、多忙ななかとりあえず最も安いと言われるCloudflareで、aikoの名曲「さよなランド」にちなみ「sayona.land」という新たなドメインを取得した。

しかし、はてな推奨のサービスではないため、細かな設定方法が見つからない(後にこれは単にやる気の問題だったことが分かったのだが)。

それでしばらく放置していたのだが、ほとんど愚痴るような感覚でChatGPTに投げかけてみたところ、堂々とした答えを出してきたので面食らってしまった。

さらに、指示されたボタンがどこにあるのか分からないのでスクリーンショットを撮って尋ねてみると「画面右側にあるボタンをクリックします」などと細かく答えてくる。

Cloudflareの次は、はてな側の設定だ。完全に言う通りにやったので報告すると、こんな返事が返ってきた。

「どういたしまして!設定がうまくいくことを願っています。もし何か問題が発生したり、追加の質問があれば、いつでもお知らせください。お手伝いできることがあれば喜んでサポートします。設定の反映を待ってみてくださいね」

これはすごいな。感心して「しかし、はてなブログの設定方法まで知っているとは驚きです。どのようにしてそのやり方を知ったのですか?」と聞いてしまった。するとChatGPTは、

「ありがとうございます。はてなブログの設定方法や他の技術的な手順について知っているのは、主に以下の理由によります」

と、堂々と説明したのだった。

なるほど、すごいや。生成AIはこういう使い方もできるのね、と感心し、丁寧に礼を言って寝た。

翌朝起きてみると、はてなに設定エラーが出ている。そこでエラーメッセージをコピペして「どのような対応をとったらよいでしょうか」と聞くと、再びアドバイスをくれるが、前回とほぼ変わらない。

これは怪しいな、と思ってGoogleを検索すると、CNAMEの前に(あるいは同時に)Aレコードを設定する必要がありそうなことを書いている人のブログをみつけた。

そこでChatGPTにその旨をぶつけてみると「(その)必要があるかどうかは、具体的なドメインの設定状況や要件によります」などと生意気を言いながら、新たな手順を指示してきた。

ちょっとカチンと来たが、そこは抑えて「ありがとうございます。最初のご提案では「ステップ1: Aレコードの設定」がなかったので、追加でやってみますね」と返しておいて寝た。

翌朝、やはりエラー。今度は無言でCloudflareの画面をスクショして送ったが「設定は正しく行われているようです。この設定が反映されるまでには、通常数時間から24時間かかることがあります」との返事。

素直に24時間待つがやはりダメ。今度ははてな側のエラーメッセージの画面をスクショ。「エラーメッセージが表示されていますね。この問題を解決するために、以下の点を確認してみましょう」というので、間違いのないことを確認する。

ぼく「8時間前に設定してもこの状態なのですが、24時間待ってみますね」
ChatGPT「了解しました。DNS設定の反映には時間がかかることがありますので、24時間待つのは良い判断です」

なるほど、これが上から目線というやつか。24時間待ったが、予想どおりダメ。またエラーの報告をすると「以下の追加確認事項と対策を試してみましょう」と提案されたものの中に、新たに「SSL/TLS設定の確認」という項目が入ってきた!

そこで「フル(厳密)」に設定を変更し、ふと見ると、はてな側にその名も「独自ドメインの設定方法は?」という小さなリンクがあるではないか。最初に見たかもしれないが、関心がなくて頭に入ってこなかったのかもしれない。

ChatGPTとのやり取りでだいぶ解像度が上がってきたので、ひとつずつ自力でチェックすると…「Value」に設定するはてな側のドメインは「blogs.hatena.ne.jp」じゃなくて「hatenablog.com.」が正しいのではないか!

こいつ、最初からウソ…いやガセネタ掴ませてたのか。どうりでうまくいかないわけだなと思いながら、設定を直して寝た。

翌朝、はてな側でようやく「ドメインの設定状況: 有効」の表示が。若干イライラしつつ、最終的にうまく行ったからいいかと、ちょっと嫌味を含めてお礼を言っておいた。

「いろいろ相談に乗ってもらって助かりました。できれば最初から正解を示してもらいたかったけど、話し相手がいたのでここまでたどり着けたといえます。ありがとうございました!」

ChatGPTも「うまくいってよかったです!(略)あなたの努力と忍耐のおかげで、最終的にうまく設定できました」などとねぎらってくれました。

うるせえよ。

ポリーニの死

ようやく重たい仕事を一息ついたので、ポリーニについてメモ。

20世紀を代表するピアニストが亡くなったというのに、親しみをもって惜しむ声があまり聞かれないのは、本当はみんなポリーニが正直あまり好きではなかったからではないか。

その点について浅田彰は「ヘルメスの音楽」の中で的確に指摘していた。

“ぼくはポリーニを聴きながら、その完璧さをフィッシャー=ディスカウの完璧さと比べていた。彼らの隙のない造形がシューマンのフモールを圧し殺してしまうという皮肉。”

1960年のショパンコンクールにポリーニが18歳で出場し、満場一致で優勝したときに、審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか?」と言ったという伝説を、多くのメディアが追悼記事で引用していた。

そのためポリーニはショパンの名前と結び付けられ、実際エチュードの録音は伝説的な名演とされている。でもあんなガンガン弾いたショパンは、いくら技術的に完璧でも愛聴したいという人は多くないだろう。良くも悪くも元はサロン音楽なのだから「あれはショパンではない」と言ってもいいと思う。

対照的なストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」は完璧が似合う音楽だけど、猛スピードで金属の弦をガンガン叩くのを聴いていると「これは別に人間が弾かなくてもいいんじゃないか」という気がしてくる。

それじゃ何がいいのかというと、結論としては、フランツ・リストを弾くときにポリーニの美点が最も現れやすいのではないかというのが個人的な偏見だ。リストには、完璧かつ強靭なタッチで弾いても消えないロマン的なものがある。耳を凝らしていると過剰なロマンが音楽を内部から壊し、現代音楽への道を切り拓く響きが聞こえてくる。

モーツァルトやショパンではなく、リストからシェーンベルクを経てブーレーズのピアノソナタ2番の名演につながる系譜こそがポリーニであって、そういうふうなピアニストだと受け取ってあげれば、それにふさわしい聴き方をされて愛されるのではないか。

ということで、リストのロ短調ソナタはおすすめです。

一方で、いくらポリーニでもコンチェルトではガンガン引き倒すことはなく、非常に抒情的な表現も聴かせて来るので、ブラームスの協奏曲などはとても美しいです。リンクは盟友アバドとのベートーヴェン4番。19分45秒あたりからのカデンツァにポリーニの本領があるとも言える。3楽章もいいです。

ところでアバドもポリーニもイタリアはミラノ出身なんですね。イタリア人なのになんでこんなに晦渋なのかと思うんですが、北イタリアってこうなんでしょうか。教えて、イタリアに詳しい人。