合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

「ジョリヴェは蕪」とはどういう罵倒か?

鶏と蕪(かぶ)の炒め蒸し煮。蕪を見ると、亡きピエール・ブーレーズがアンドレ・ジョリヴェを罵倒した「ジョリヴェは蕪」という暴言を思い出す。

この言葉を昔どこかで読んだときには、どういう意味だか分からなかったので、日仏辞典で蕪を調べると「navet」で、「jolivet navet」をネットで検索すると、どうもブーレーズは「Joli-navet」と言ったらしい。

Joliはフランス語で「可愛い」だから、Joli-navetは「可愛い蕪」。これがどう罵倒とか暴言になるのか分からないままだったけど、さっき見たLe Mondeの2005年の記事によると、ブーレーズはプログラムにこんなことを書いたようだ。

www.lemonde.fr

Le compositeur du Marteau sans maître pousse la métaphore ménagère : "En fin de compte, devrions-nous à l'amabilité délicate d'un quelconque joli navet d'être cent fois signalés à l'attention bienveillante de la préfecture de police, nous ne lui ferons jamais subir l'outrage de servir aux plaisirs auriculaires des duchesses, etc. ; plein de déférence pour ce pâle légume, nous préserverons sa vertu."

「結局のところ、可愛い蕪の繊細な好意によって、私たちが警察の慈悲深い注意を何度も引くことがあっても、私たちは決してその侮辱を受け入れず、公爵夫人たちの耳を楽しませるために使うことはありません。この淡白な野菜に敬意を払い、その純潔を守ります」(機械翻訳)

どなたかもっと適切な翻訳をして、この問題を根本的に解決してくれないだろうか。

要するにこれは、ブーレーズが音楽監督を務めるドメーヌ・ミュジカルに対し、公爵夫人やスノッブしか惹き付けないとジョリヴェが批判し、警察によってコンサートが禁止されることを喜んでいる、と伝えられたことへの反撃だったらしい。

で、そんな間柄だったにもかかわらず、ブーレーズはジョリヴェの作品を指揮するコンサートを開く、というのがLe Mondeの記事の趣旨。記事の曲ではないけど、YouTubeから一曲、フルート協奏曲。

これからも蕪を見るたび、このことを思い出すのだろうか?

なお、こちらが検証なしに「ジョリヴェは蕪」を引用している解説文。これでは意味が分からない。一方、「ベリオはチェルニー」はあまりに直截的な罵倒。

この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」「シェーンベルクは死んだ」「ジョリヴェは蕪」「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が、現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。

www.hmv.co.jp

三善晃「反戦三部作」と能

眠たい(by 天竺鼠 川原)。でも先週の三善晃「反戦三部作」の感想をメモしておかないと…。たった一週間前のことなのに、もうだいぶ前の話に思える。指揮をした山田和樹さんもインタビューで三善作品を「揮発する」「虹のようなもの」と表現しているけれど、あれだけ壮絶な世界を見せられながら、つかめた感じがしないのは不思議だ。それでいて演奏会中は、三善音楽が身体に注入されて満ちていく感覚があった。翌週は仕事のモチベーションを保つのが大変だった。この豊かさと測りあえる時間の使い方ができる自信がない。

www.tmso.or.jp

いきなりだが「反戦三部作」という呼び名には違和感がある。戦争を扱った音楽には違いないが、反戦という言葉にまとわりつく思想、イデオロギーは皆無だ。そんな甘いものではない。「人間を返せ」みたいなメッセージを介さずに、戦争と戦死そのものが再現されている。「阿鼻叫喚三部作」に近く、だから普遍性がある。

「多摩川で水遊びしていたら、隣にいた子供たちが機銃掃射で真っ赤に血を流して死んでしまった。それを見ても自分はただ着替えて家に戻ってくるだけなのです。累々と死体が横たわっている上を私はまったく無感動で、死体を飛び越えて歩いていたのです。天に向かって突き出ている死体の指を引っ張ったら、手袋が脱げるように肉が取れた。その後、私は生きていることの罪の意識から離れることができなかった」(三善晃)

三部作の構成は、特攻隊員の遺書などをテキストとした「レクイエム」(1972)では死者から生者への呼びかけ、宗左近の詩を用いた「詩篇」(1979)では生者から死者へ「花いちもんめ」の呼びかけが行われる。そして最後の「響紋」(1984)では、死者と生者が手を取り合って輪になって「かごめかごめ」をする。だから三部作を一晩で一気に聞く意味は大きい。ただ、演奏者の規模も大きいし演奏にもエネルギーがいるので、これまで演奏されたのはただの一度しかなく(「作曲家の個展'85」の尾高忠明&N響以来)、史上二番目の現場に立ち会えたということになる。

個人的な体験としては、「響紋」の初演がNHK-FMで放送されたときにラジオにしがみついており、あまりの衝撃にしょんべんちびりそうになった。17歳だから高校二年生か。そのあとすぐ、「レクイエム」と「詩篇」の入ったレコードを買い求めて繰り返し聴いた。まあ、受験勉強なんてするわきゃないよね。

今回の演奏で、「レクイエム」における能の要素が思ったより色濃いことに気づいた。打楽器やフルートの使い方、合唱の歌い方に能や謡曲に似た部分があるのは以前から感じていたが、そもそも音楽の構造として、能には「霊が過去を振り返った語りで話が進む」ものが多いことを思い出した。

www.the-noh.com

九州日向国の旅の僧と従僧(または日向国の人)が、伊勢神宮参詣の旅に出ます。途中、阿漕が浦(今の三重県津市阿漕町あたりの海岸)に着きます。旅僧一行(旅人)は、そこで一人の老いた漁師に出会います。老人は旅僧たち(旅人)と阿漕が浦にまつわる古歌について語り合います。旅僧(旅人)が、阿漕が浦の名前にどんな謂れがあるのかと尋ねると、老人は、昔、阿漕という漁師が禁漁区で魚を取り、見つかってこの裏の沖に沈められたことを伝えます。そして、阿漕の霊は罪の深さにより、地獄で苦しんでいる、弔いをなされよ、と語り、自分がその亡霊であることをほのめかし、急に吹いてきた疾風のなか、波間に消えていきました。

近隣の里人から改めて、阿漕の最期を聞いた旅僧たち(旅人)は、法華経を読んで阿漕の跡を弔います。すると夜半に阿漕の霊が現れ、密漁の様子を見せ、さらに地獄の責め苦にあう自らの惨状を示します。行き場のない苦しみを訴えながら、阿漕は「助けてくれ、旅人よ」と言って、波の底へ入っていくのでした。

なぜ自分が霊になったのか、そのいきさつを僧に話して成仏していく。これは「レクイエム」の作りそのものではないか。三部作あるいはレクイエムにおける能の影響というのは読んだことがないので、あまり重視されてこなかったのかもしれないが、相当深く関わっている感じがした。

www.youtube.com

最高の布陣で一流の音楽家がリスクをとった表現をしているのだから、それについて自分の好みや、あるいは過去の録音で形成された思い込みと照らし合わせたああだこうだを言っても意味がないが、あえていえば「レクイエム」の終盤の「ゆうやけ」、小学4年生の女の子が書いた詩の、

人が死ぬ
その
世界の
ひの中に
わたし一人いる
そして、
わたしもしぬ
世界にはだれもいない
ただ
かじが
きかいのように
もうもうともえていた

のところで急にスピードを上げて、オケが過熱し空中分解寸前になった部分が気になった。

山田さんはコンサート後のアフタートーク(ロビーに500人以上集まった?)で「都響はさすが。本番での振り幅(リハーサルとのテンポの差異)が大きくてもついて来てくれた。きょうは倍速くらい違うところがあった」といった旨のことを言っていたけど、それはおそらく「ゆうやけ」の部分を指していたのだと思う。

正直、ここの部分は指定されたテンポで粛々と振ったとしても、惨劇は再現できるように書かれているはずだ。しかし、「人が死ぬ」音楽に、そのような秩序を守った演奏がありうるだろうか。山田さんはそう考えたのかもしれない。結果として、(大切なはずの歌詞が)ほぼ聞き取れない音楽になっていたが、その可否について論評する気は起きない。これは一流の演奏家たちが希少な演奏機会のひとつにおいて、リスクをとって行った表現だったという事実を受け止めるしかない。

youtu.be

個人的に新鮮だったのは、2曲目の「詩篇」で、これは尾高さんが振った三部作のほかにはナクソスにコバケン(実は初演をやっている!)が振ったものくらいしか録音がなかったが、和声が美しく響く部分はまさに東混と山田さんの本領という感じがした。合唱の呼びかけのような場面では、縦の線が揃っていないところがあった。それもそのはず、あれだけ細かなキュー出しをする山田さんが棒を振っていないからだ。それについて不満を書いているツイートもあったが、まずは批判的に見るのではなく表現を丸呑みしてみるべきだろう。たぶんあそこは、縦の線をあえて合わせないことで、合唱をマスではなく個人(の生あるいは死)の集まりとして扱う意図があったのだと思う。

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3曲目の「響紋」は、合唱団が舞台にいないのに始まってしまい、どういうことかと思ったが、なんと子どもたちが、あの「かごめかごめ」を歌いながら入ってきた。また曲の途中で子どもたちが手を繋いだり身体を揺らしたり、最後の「後ろの正面だあれ」は後ろ向きになって歌ったりしていた。合唱団指導の芸術監督である長谷川久恵氏のアイデアらしい。成否は関係なく、数少ない演奏機会にそういうリスクを負った試みをすること自体は素晴らしい。特にいまの日本はリスクを避けすぎる。

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なお、今回は上野の東京文化会館の大ホール2,300席がいっぱいになったそうだ。とはいえこれにはカラクリがあって、合唱団――東京混声合唱団はともかく武蔵野音楽大学や東京少年少女合唱隊――が出演する場合には晴れの舞台に我が子、我が孫、我が甥姪が出るというので一族郎党こぞってチケットを買い求めるのである。これはビジネスモデルとして今後も活用すべきだ。現代作曲家は少年少女合唱団を入れた曲を書けばいいのではないか(とはいえ実演に向けたハードルも高くなるので諸刃の剣)。

坂本龍一「funeral」YouTube版リスト

坂本龍一が自分の葬儀で流すことを想定したプレイリスト「funeral」が公開されました。しかしSpotifyなので全曲聴けない人もいるかと思い、YouTubeで検索してリスト化しました。クソ忙しいのに何やってるんだw 

open.spotify.com

これを機会にフランス近代音楽(クラシック音楽とはあまり呼びたくない。単にラヴェルとかドビュッシーとかでいいと思う)を聞く人が増えるといいなと思います。感想としては、ピアニストのこだわりがあるなと。マルチプレイヤーの名前は出てこなくて、例えばドビュッシーであればミケランジェリ、ラヴェルであればペルルミュテールといったような。他にもなんか聞くきっかけを書ければいいんだけど、取り急ぎ公開しますね。

 

Alva Noto: Haliod Xerrox Copy 3 (Paris)
※アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)のアルバム「Xerrox, Vol.1」(2007)より。

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G.Delerue: Thème de Camille
※ジャン-リュック・ゴダールの映画「軽蔑」(1963)のサントラより、ジョルジュ・ドルリューによる「カミーユ」のテーマ。

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E.Morricone - Romanzo - Novecento (1976)
※映画「1900」(1976)のサントラより、モリコーネによる「ロマンツォ」。

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G.Faure: La chanson d’Eve, Op. 95: No. 10, O mort, poussière d'étoiles
※ガブリエル・フォーレの連作歌曲「イヴの歌」(1910)より「おお死よ、星くずよ」。

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E.Satie: Gymnopédie No.1 (Orch. Debussy)
※エリック・サティ「ジムノペディ」第一番(1888)。ドビュッシーによるオーケストラ編曲版。

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E.Satie: Le Fils des Étoiles: Prélude du premier Acte
※サティの劇付随音楽「星たちの息子」(1891)第一幕への前奏曲。ピアノはアレクセイ・リュビモフ。

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E.Satie: Elégie
※サティ「3つの歌曲」より第2曲「エレジー」。

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Debussy: Préludes / Book 1, L. 117 - VI. Des pas sur la neige
※クロード・ドビュッシー「前奏曲集」第1集(1909-1910)より第6曲「雪の上の足跡」。ピアノはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。

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C.Debussy: Images - Book 2, L. 111 - II. Et la lune descend sur le temple qui fût
※ドビュッシー「映像」第2集(1907)より第2曲「そして月は廃寺に落ちる」。ピアノは同上。

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C.Debussy: Le Roi Lear Le Sommeil de Lear
※ドビュッシーの劇付随音楽「リア王」(1904)より「リア王の眠り」。ピアノはアラン・プラネス。

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C.Debussy: String Quartet in G Minor, Op. 10, L. 85: III. Andantino, doucement expressif
※ドビュッシー「弦楽四重奏曲」(1893)第3楽章アンダンティーノ。ブダペスト弦楽四重奏団。

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C.Debussy: Nocturnes, L. 91: No. 1, Nuages
※ドビュッシー「ノクチュルヌ(夜想曲)」より1曲目「雲」。レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック。

 

C.Debussy: La mer, L. 109 - II. Jeux de vagues
※ドビュッシー「海」(1903-1905)第2楽章「波の戯れ」。ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団。

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D.Scarlatti: Sonata in B Minor, K.87
※ドメニコ・スカルラッティのソナタK87。ピアノはウラディミール・ホロヴィッツ。

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J.S.Bach: St. Matthew Passion, BWV 244, Pt. 3 (1954 Recording) : O Haupt voll Blut und Wunden
※ヨハン・ゼバスティアン・バッハ「マタイ受難曲」(1727)より「血しおしたたる」。ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー(1954年のライブ録音)。

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G.F.Handel: Suite in D Minor, HWV 437: III. Saraband
※ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル「組曲(クラヴサン組曲第2集)」(1730)からサラバンド。カロル・テウチ指揮レオポルディヌム・ヴロツワフ室内管弦楽団。

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Maurice Jaubert/Lys Gauty: A Paris dans chaque faubourg
※モーリス・ジョベール作曲、リス・ゴーディ歌「パリ祭(巴里恋しや)」(1933)。

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Nino Rota: La strada (From "La strada" Original Soundtrack)
※ニーノ・ロータによる映画「道」(1954)のテーマ。

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Nino Rota: La Plage
※ニーノ・ロータによる映画「太陽がいっぱい」(1960)テーマ(1回目)。

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M.Ravel: Menuet sur le nom d'Haydn, M. 58
※ラヴェル「ハイドンの名によるメヌエット」。ピアノはVlado Perlemuter。

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M.Ravel: Sonatine, M. 40: II. Mouvement de menuet
※ラヴェル「ソナチネ」の2楽章メヌエット。ピアノはAnne Queffélec。

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Bill Evance Trio: Time Remembered (Live)
※ビル・エヴァンス・トリオ

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T.Takemitsu: The Dorian Horizon for 17 Strings
※武満徹「地平線のドーリア」。小澤征爾指揮トロント管弦楽団。

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Jatekok (Games), for piano~J.S. Bach: Das alte Jahr vergangen ist, BWV 614 - Hommage a Reinbert de Leeuw
※クルターグ・ジェルジュ生誕80周年ライブより、バッハ「汝にこそ、わが喜びあり」。ラインベルト・デ・レーウに捧ぐ(不詳)。なお、デ・レーウは作曲家でサティ弾きのピアニストとして知られる。

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J.S.Bach: Chorale Prelude BWV 639, “Ich ruf zu dir, Herr”
※バッハ「10のコラール前奏曲」より「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」。ピアノはタチアナ・ニコラーエワ。

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J.S.Bach: Musical Offering, BWV 1079 - Ed. Marriner - Canones diversi: Canon 5 a 2 (per Tonos)
※バッハ「音楽の捧げもの」より。ネヴィル・マリナー編曲。

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J.S.Bach: Sinfonia No. 9 in F Minor, BWV 795 (Remastered)
※バッハの「シンフォニア」第9番。ピアノはグレン・グールド。

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J.S.Bach: The Art of the Fugue, BWV 1080: Contrapunctus XIV (Fuga à 3 soggetti) (Excerpt)
※バッハ「フーガの技法」より。ピアノはグレン・グールド。

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J.S.Bach: Die Kunst der Fuge, BWV 1080: I. Contrapunctus 1
※バッハ「フーガの技法」より1曲目。演奏はヴィオラ・ダ・ガンバ四重奏のSit Fast。

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J.S.Bach: Die Kunst der Fuge, BWV 1080: XI. Fugua a 3 sogetti
※同上の11曲目。

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Nino Rota: Mongibello
※映画「太陽がいっぱい」(1960)テーマ(2回目)。

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David Sylvian: Orpheus
※デヴィッド・シルヴィアンのアルバム「Secrets Of The Beehive」(1987)より。

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Laurel Halo: Breath
※ローレル・ヘイローによる映画「POSSESSED」(2020)サウンドトラックより。

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公衆衛生vs.個人の自由 in 鴨川

いまだSNSではコロナ対応についてあちこちで議論とも呼べないような諍いが続いているが、それは社会全体での感染者数や死亡者数を限りなくゼロに近づけようとする「公衆衛生」のスタンスと、「個人の自由」を最優先する思想とが矛盾するから起きているものが多いように見える。

それぞれを単独で見れば正義には違いないが(人間には愚行権すらある)、両者は並び立たない。その矛盾を意識的にないものとしているのか無意識でやってるのか知らないが、隠蔽してそれぞれが自分こそ正義だと主張するから血みどろになる。「我々の主張は同時には実現し得ない矛盾がある」とちゃんと確認してから話をすべきだろう。

明治時代にコロナが流行ったとき、公衆衛生の立場から活動していた医師が村人に惨殺される話を聞いたことがあり、遠い昔のことのように感じていたが意外とそうではないのかもしれない。

…などということを思い出しながら、それっていったいどこの話なんだろうと検索してみたら、なんと鴨川だった。それもうちから少し海に行った亀田医療大学のグラウンドから加茂川を渡ったところに記念の碑が建っているというので、早速行ってみた。


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その名も「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」と記された石碑は汚れもあって読みにくく(それでも最近掃除されたようだが)、その場でこの事件を書いた吉村昭の「コロリ」という小説をダウンロードしてKindleで読んでみたら、聞き覚えのある地名がたくさん出てきたうえに暴行の描写が思ったより凄惨で、かつ碑が建っている場所が遺体が流れ着いた場所ということが分かって震え上がった。

エピソードを簡潔に聞くと医師を殺した漁民たちの愚かさだけが頭に浮かんでしまうが、小説でも描かれているのは(個人の自由との対立ではないものの)やはり価値観と価値観との矛盾する対立で、この玄昌という医師はコレラ以前にも様々な形で近代的な価値観を村に持ち込もうとしては問題を起こしてきた人だったというのが興味深い。自分の行いを振り返りながら生まれた時期が悪かったら多分何度か惨殺されてたな、などと感慨に耽ってしまった。

今のところ鴨川の人たちは非常に穏やかでいい感じの印象しかないし、昔からきっとそうなんだろうと思うけど、そういう人たちでも置かれた状況によってはこうもなるんかなと思いました。「コロリ」おすすめです。


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坂本龍一と「恥の感覚」

Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc

きのうは歌舞伎町の109シネマズプレミアム新宿で、映画「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022+」を見てきました。4500円で山盛りのポップコーンと飲み物つき。大きめのシートはふかふかしていて左右に食べ物と飲み物を置くスペースがあり、巨大なスクリーンと最晩年の坂本が監修したという音響で、ぜいたくな時間をすごせました。

画面には大きなヤマハのグランドピアノと、10本以上のマイク。登場人物は黒いシャツを着た老人がひとりだけで、髪は真っ白、頬はこけ、無精髭を生やし、丸い眼鏡をかけています。眼鏡の奥にはギラリとした眼がありましたが、もしかすると眼鏡をかけていないと、眼の周りはかなり落ち窪んでいるのが目立つかもしれません。

この老人こそが病身の坂本龍一で、孤老となった最晩年の永井荷風のようにも、痴呆気味の老人を演じる俳優の加藤嘉にも見えました。ただ、ある瞬間では、まるで中学生のような無垢でみずみずしい表情に見えることがあったのは驚きでした。

そのような、死に直面した人間をまじまじと見る経験は稀なので、音楽以前の話として今後の人生において引きずりそうな体験でした。坂本音楽に興味がない人でも、そういう映画として鑑賞する価値ありかもしれません。

映画は90分ほど、冒頭の挨拶に続いて12曲+1曲のピアノの演奏がただただ続くんですが、坂本の体力が続かないので何回かに分割して収録されたようで、収録単位の終わりの方になると微妙に弾けてない箇所が出てきたりして、限界までやってるなという感じがしました。

勘違いかもしれないのですが、演奏中、オクターブを弾くはずの箇所の音をいくつか省いているようにも聞こえました。それは響きの効果を狙って抜いているのか(坂本が影響を受けたラヴェルはあえて中抜きの和声で宙吊り感を出していた)、体力の衰えが著しくて鍵盤をいくつか飛ばすことにしたのか、あるいは鍵盤を押しているつもりなのに音が出ていないのかは分かりませんでした。

一方で、左手のすべての音が驚くほど重たく均一に弾かれている箇所もあり(ああ坂本さんは左利きなのかな)、腕利きのスタジオミュージシャン、キーボード奏者の面影もあったりして、そこも興味深かったです。

エンドクレジットに(事実婚の)妻と子供の名前が制作者として入ってるんですけど、ここまでして引っ張り出さなくても、という感じもしました。「人生は短し、芸術は永し」とは、本当に本人が好きな言葉だったのだろうか? 名声を残すための演出は過剰ではなかったか。

まあ、おかげでこのような貴重な演奏を味わうことができたんですけど。

曲は通して聞くとドビュッシーやサティ、ラヴェルの影響がもろに分かる箇所が多く、最晩年になってそれを隠す気も起きなくなったのかな、と思ったほどでした。まあ楽譜には書いているものの基本的には即興的な曲が多く、それもあって根っこの部分があらわになったのかもしれないです。ラヴェルは「シャブリエ風に」というピアノ曲を書いていますが、もう「ラヴェル風メヌエット」といっていい曲もありました。

それと比べると、作り込まれ何度も演奏されている「シェルタリング・スカイ」「ラスト・エンペラー」「戦場のメリークリスマス」といった映画音楽は、練られたメロディの壮大さと暗い和声に坂本の個性が現れてて、やっぱり相当な音楽家だったんだなとあらためて思いました。

でも、ダントツによかったのは「Tong Poo(東風)」でしたね。この感想は自分でも意外でした。

少し脇道にそれると、生涯に一度だけ答案用紙をまったくの白紙で出したことがあって、それが某W大入試の小論文だったんですが、ある文章がお題に出て、それが当時絶版だった武満徹の「音、沈黙と測りあえるほどに」からの引用だと即座に気づくことができたのは、その何年か前にある本屋のデッドストックでその本を発見し、勉強そっちのけで暗号を解読するようにコツコツ愛読していたからでした。

「恥の感覚」というその文章は、要約すると「自分の音楽が収められた輸出用のレコードのジャケットが、フジヤマゲイシャだった。それを見て“恥の感覚”が生じた」といったような内容でした。それを読んで、なぜ一文字も書けずに終わったかはここでクドクド書くべきではないと思いますが、いま振り返ると、10代の男の子としてはそれなりに誠実な態度だったのかもしれない(笑)。

2002年に発売されたBISのCDですら、このジャケットですからね…。

それはともかく、武満さんの音楽は、海外で「日本的」と評されることはあっても、ペンタトニック(5音階)をいわゆる東洋的な効果をねらって使うことはなかった。「ノベンバー・ステップス」などで尺八や琵琶といった和楽器を持ち出したときでも、決してオリエンタルな雰囲気を醸し出すメロディを演奏させるためではなく、西洋文化の集積としてのオーケストラと対峙させて「我々の耳はおまえらとは違うのだ」とケンカを売るような使い方がされていました。

なので、「最新のコンピューターを使って、ニセの中国人を装ったダンスミュージックを作り、アメリカでレコードを400万枚売る」といった戦略で成功した最初期のYMOが出てきたとき、ものすごいアレルギーがあったんですね。武満さんが「恥の感覚」と呼んだようなものを逆手に取って、キッチュなオリエンタリズムやエキゾチズムで海外市場に売れる坂本たちは、どういう神経をしてるのかと。

ということもあって、その戦略から脱して純粋に新しいコンピューターミュージックに入っていった「テクノデリック」の感動がひとしおだった。いや、時系列としてはその6~7年前なのでまだ武満さんの文章を読む遥か前ですけど、同じような問題意識というか感覚はなぜかあった。

で、当時の典型的な敵のひとつが、坂本の「東風」だったんですよ。まだ小学校高学年か中学生になりたてくらいでしたが、あのゴーゴーディスコの質の悪いパロディとしか思えないイントロと、それに続く、胡弓で演奏したら映えそうな中国風のキッチュなメロディ。いま振り返れば、あの不快感はまさに「恥の感覚」を刺激された気分だったのだと思います。

いや、坂本のペンタトニックはもっとグローバルな感覚で書かれたものだった、という反論は想定できるんですけど、「アメリカ人が好きそうな日本人に偽装して売り込む」というコンセプトは、細野さんのトロピカル三部作の延長線上にあることは事実だとしても、それが明確にアイデア化されたのは、個人的には坂本の「千のナイフ」を細野さんが聞いたときだったに違いない、と思えて仕方ないんですよね(もしかしたらどこかで証言が出てるのかもしれないけど)。

YMOのファーストアルバムとほぼ同時に発売された坂本の「千のナイフ」には、「新日本電子的民謡 DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRONISCHE VOLKSLIED」という、架空の民謡というか盆踊りのパロディをシンセでやった音楽が収録されていて、すでにここに初期YMOそのものがある。

武満さんが(恐らく和楽器を使ったことを理由に)日本回帰をしたと怒り、「武満を殺せ!」と書いたビラをまいた坂本自身がこれをやっている。どういうことなのか?

そんな疑問や憤りは、長いことわだかまりとして残っていて、実はこの日もその思いを一部引きずっていなかったといってはウソになる気持ちを抱きながら「Playing the Piano 2022+」を聞いていました。しかし、ドビュッシーやラヴェルの影響をあからさまにした作品群の中で、「東風」のオリジナリティって異常に突出してるんですよ。もう飛び抜けて。

これって、言ってみれば「恥の感覚」を突き抜けているんだな、と気づきました。武満さんの戦い方もあるけど、こういう突破の仕方もあるんだなと。80年代の終わりに村上龍の「Ryu's Bar」で2人が話していた(と番組最後に明かされる)「突破する」とは、こういうことなのかもしれない。

もちろん、シンセサイザーの耳障りなピコピコ音や奇っ怪なメロディが、ピアノの和声で薄まっただけであって、多くの人には魅力の後退と捉えられるかもしれない。でもここにはひとつとして動かしようがない確固たる要素が揃っていて、最初から坂本の頭の中でこのような音楽として響いていたとしたら、これは大変なものだし、率直に自分の不明を恥じるべきだなと思いました。

正直、これはこれからも残る曲だと確信しました。もしかするとストラヴィンスキーやカプースチンなどの作品と並んで、クラシックのコンサートピースになってもおかしくない。ただし「BTTB」の、あの速弾きヴァージョンではなく。

「Playing the Piano 2022+」の東風は、イントロを飛ばして“ヨナ抜き音階”のAメロで静かに始まり、Bメロを経てイントロに戻るんですが、このBメロ-イントロがすごかった。螺旋状に上昇するBメロについた和声は非常に複雑で、黒い雨雲がどんどん大きくなっていくような迫力があって、これをポップ・ミュージックに持ち込める人って坂本だけだよな、という興奮がありました。

それからディスコミュージックのパロディにも日本の民謡による盆踊りにも聞こえるイントロも、テンポを落として低音部で静かに弾かれると、シューベルトの晩年のソナタのような深遠な世界に聞こえてきて、これも面白かったです。

ということで、この最晩年様式の「東風」の演奏には、まったく予想外に、ものすごく感動したので、このスタイルで同じように「THE END OF ASIA」などのYMOナンバーをやってもらいたいな――なんて思ったところで、彼の不在にあらためて直面することに。もう坂本はこの世にいないから、新しい音楽は作ってもらえないんですね。

鑑賞後、2階に降りましたら、東急歌舞伎町タワーには「歌舞伎横丁」というネオン街を模した飲食店があり、そのあまりにもキッチュな有様に外国人は大喜びでした。坂本と和解した僕は「これでいいのだ」などとつぶやいてしまいました。

人の欲望と意思決定について

先日、移住に関するインタビューということで、ある大手企業の方々と1時間ほどお話をした。彼らは彼らなりの仮説をもって臨んでくれていたようだが、想定通りの答えが返ってこないもどかしさを感じているようだった。

私としては訊かれたことへ自分なりに誠実に答えたつもりだが、ちょっと誠実すぎたのかもしれない。人には個々の物事に対しての考え方の違い以前に、パラダイムの違いというか個性のようなものがあって、それが異なっているとなかなか話が通じないものである。

なので、インタビュアーはさまざまな体験や思考を通じて、すべての型に対応することは難しくても、いくつかのパターンを持っておいた方がいい。少なくとも、そもそもそういうレイヤーの問題が存在することは承知しておいた方がいいと思った。

仕方のないことではあるが、彼らは線的なロジックを想定していたのだと思う。単純化していえばストーリー、起承転結のようなものだ。何かの動機があり、その考えが深まっていたものの、諸々の事情で諦めていたんだけど、なにかのきっかけでそれが実現し、今に至っているというような。

そういう説明ができればよかったのだが、実際にはそうでなかった場合、どうすればいいのか。最終的な意思決定から逆算して、そういうストーリーを捏造すればよかったのか?ハキハキしゃべる就活生のように。しかし私は、生涯で一度だけ「志望動機」を語るべき場で話を逸し、答えずじまいで終わってしまったときと同じように、そういうストーリーを捏造しないでいた。

人の欲望とは、夜空に広がる星のようなものではないだろうか。そして、何らかの現実的な意思決定を行うこととは、そんな星々の瞬きを踏まえて、現実レイヤーにいま叶えたい星座を描くような行為である気がする。

やっかいなのは、一つひとつの星は常に瞬いていることで、優先度や重要度が高くなって大きく輝いていると思えば、次の瞬間には醒めてしまって小さくしぼんでしまうこともある。特に自分の場合、この瞬きが非常に気まぐれである。子どものころからの憧れみたいなものが持続しない。すぐに幻滅し、またおかしな切り口から可能性を見出したりする。

さらに、現実的な意思決定というものは、ある時点で輝きの強い星をつないで任意の星座を描けば自動的に実現するものではなく、ヒマやカネなどの制約条件を踏まえつつ、逆に「具体的な不動産物件」といった現実によって触発されて瞬いた星をつなげて星座にするような作業とならざるをえない。

そしてそれは結局、目の前の「物件」の魅力に依存するのである。とはいっても、その魅力もモノ自体に備わっているものではなく、言うまでもなく見出した人に依る。

哲学に詳しい方であれば、たとえば唯物論あるいは実在論と観念論みたいな言葉を使って整理できるのかもしれないが…。ということで、きょうはムーンライダーズの岡田徹さん(キーボード)の訃報を聞いて悲しいので、彼の「ウェディング・ソング」を。

ゴンドラに揺られながら 寄せる波に綴る星の囁き

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ムーンライダーズ史上最悪のエロソングも岡田さんの作曲だった。歌詞は鈴木慶一。

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大貫妙子の「新しいシャツ」と坂本龍一

もう何年も前、坂本龍一が出演するラジオ番組で大貫妙子がゲストの回を偶然聞いたことがある。そのときの大貫さんのはしゃぎっぷりとデレぶりがもう異常で、これはただならぬ関係なんだろう(あるいは、だったんだろう)と思った。

一方で、80年代以降の大貫妙子の転換――なんでも歌える鋼鉄の喉のヴォーカリストから、力を抜いた澄んだ声の繊細な歌い手へ――の裏には、かなり謎めいたものがあって、

もちろんプロデューサーの牧村憲一氏から「ヨーロッパっぽい音楽をやってみないか?」「声量を要求されるような音楽ではなくて、逆に囁くような歌の方が向いているかもしれないよ」と提案されたということは、すでにいろんなところで語られているけど、

転換後のスタイルが定着したときの表現の深さがあまりに段違いなので、個人的には、もしかすると大貫さんの体験としてかなり深く傷つくことがあって、それこそ声が枯れるほど泣いて泣いて、その孤独を長々と引っ張ってることが影響しているのではないか、などと根拠なく考えていた。

そんな謎を、この年末にようやく解くことができた。坂本龍一が「新潮」に連載している「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の第2回に、こんな箇所があったのだ。

今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。だけど、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当に酷いことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。

そして、当時、大貫さんが発表したのが「新しいシャツ」で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、2人のコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知る人がいたのでしょう。

ああ、そんなことがあったんだ。長年のつかえがようやくおりた、自分の誤解や思い込みがあるかもしれないけど、それも含めて、何もかも辻褄が合う気がした。ただ、客席で嗚咽を漏らしているのは、たぶん昔の関係を知っているからだけではない。

「新しいシャツ」が恐ろしいのは、その曲の展開で、最初の歌い出しは何の曇りもないFのメジャーコードで、歌詞も「新しいシャツに」なので、本当に晴れ晴れとした清々しさしかない。

それが「袖を通しながら」と「私を見つめてる」で少し間を開け、「あなたの心が(補:もうここにないことが)」に至るまで、E→D→C→B♭→Aとガンガンと下がっていって、「いまはとてもよくわかる」でC(Fのドミナント)に着地する。

その下降の途中ではマイナーセブンを多用し、表面的な明るさのまま暗さが忍び寄る効果を出している。希望に満ちた澄んだ青空にいつの間にか虚無と絶望が蔓延していたような、「あれ…笑ってたはずなのに目から水が…」みたいな状況を非常に巧みに描いている。

この曲が初めて収められたのは1980年リリースのアルバム「Romantique」で、編曲者、ピアニストとして坂本龍一が参加している。これもすごくいいのだが、二人ともまだこの曲の恐ろしさをそこまで意識していない。というか、恐ろしさに直面することを避けている気がしてならない。

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それが、後のセルフカバーアルバム「pure acoustic」に収められたピアノ五重奏をバックにしたアレンジ、あるいはピアノソロと歌うバージョンで聴くと、歌に仕掛けられた絶望感、いままで確かだったと信じ込んでいた足元がズブズブと崩れていく感じが強く出てくる。

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個人的には、こういう崩壊感が得られる表現が好きなのだ。というか、基本的にそういうものにしか惹かれない。

で、最後は崩れ切ってしまうのかと思うと、歌詞は「二人で築いた/愛のすべてが/崩れてしまうのが恐いだけ」と続き、「だから何も言えない」でC(あるいはC7)で明るく終わる。こりゃ客席が嗚咽するのも当然だろうと思う。

特に「あなたの」(Am)からの「心が」(B♭m)で、ズボッとはまり身動きが取れなくなる。歌詞と曲の、なんというシンクロ。

この「心が」をもう少し別の角度で説明を試みると、「新しいシャツに袖を通しながら私を見つめてる、あなたの」までは、純粋に外形的、視覚的な世界である。なのに、その次に、いきなり「心が」という内面的というか、非視覚的な世界に入っていく。そこで下降ラインを踏み外したB♭(Fのサブドミナント)が来る。

外形だと思っていたものが内面に続いている。そしてそれが「いまはとてもよくわかる」で終わる一文になっている。もちろん英語でも同じような構造の文を作ることは可能だと思うが、日本語の文末決定性がうまく利用されている詞ともいえるだろう。

大貫妙子のオリジナルの素晴らしさを確認するために引き合いに出すのは気の毒だが、原田知世のカバーと聞き比べてみればいい。

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原田は知的で誠実にこの曲に向かおうとしている。なので、歌詞を文章として読み、意味を十分に理解したうえで歌っているのではないだろうか。

それ自体は尊いことなのだけれども、原田の場合は歌い出しから微かな諦念というか、崩壊の予感が立ち込めてしまっている。オリジナルのように、歌い進める瞬間々々で悪い予感が忍び寄ってくるような、ズブズブと崩壊していく感じがない。

時間藝術である歌というパフォーマンスを、「(私は)あなたの心が、いまはとてもよくわかる」という主語-目的語-述語で表す文章の内容に収斂させてしまってはいけない。

決定版は、坂本龍一被害者の会(大貫妙子&矢野顕子)のデュオだろう。間奏で奏でられるボレロに似たリズムは、無類のモーリス・ラヴェル好きの坂本への当てつけ、いや、オマージュにも聞こえる。

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矢野は当然、坂本と大貫さんが同棲していたことを知っていただろう。いや、矢野誠と離婚したのが1979年、坂本と正式に結婚したのが1982年ということを考えると、坂本の「新しいシャツ」は矢野だった可能性は低くない(間に誰か挟んでるかもしれないけど)。

なお、大貫さんは坂本と「UTAU」というアルバムを出しているけど、そこに「新しいシャツ」は収められていない。

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坂本龍一のサウンドストリート(NHK-FM)に大貫さんが出ている音声は、YouTubeに少なくとも2本ある。1本目は1982年9月21日オンエアーのもので、大貫さんがアルバム「クリシェ」を出した後の回。

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2本目は1983年11月15日オンエアーのもので、大貫さんが「シニフィエ」を出した後の回。

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ぼくが聞いた番組がどちらかは覚えていない。もしかすると、もっと後だったような気もする。それこそ「UTAU」あたり。

なお、坂本の連載第2回「母へのレクイエム」が掲載された「新潮」2022年8月号は版元品切れで、amazonで3,000円のプレミア価格がついてます(2022年12月30日現在)。

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なぜ安倍元首相の「国葬」は、中央線系サブカル中年にあそこまで毛嫌いされたのか?

安倍元首相の国葬が9月27日、東京・千代田区の日本武道館で行われた。これにあわせて千鳥ヶ淵をはさんだ九段坂公園には一般向け献花台が設けられ、順番を待つ列は市ヶ谷を抜けて四ツ谷を超えたという。

マスコミによる事前の世論調査では反対意見が約半数を占めたが、実際には国葬の開催を支持して自ら参加した人がかなり多い事実が明らかになった。献花の列に並んだ「ポスト団塊世代」の60代週刊誌ライターAさんに、現地の模様と感想を聞いた。

献花台で感じた「自然発生的な弔意」

――安倍さんへの献花の列に並んだそうで。

物書きの端くれとして、こんな貴重な「事件」を目の当たりにしないわけにはいかないでしょう。最初は外から取材しようと思ったんだけど、やっぱり並んで手を合わせてみようと、午前10時ころ九段に向かうと、すでに長蛇の列で。

――どんな人がいましたか。

驚いたのは、僕の前後の人はみんなひとりで来ていたこと。安倍さんの故郷から大挙してとか、どこかの団体が「動員」してとか、夫婦や家族連れとか、そういうのじゃないのに、あれだけの列だとしたら、それってすごいよね。

で、僕が手を合わせていると、喪服を着た中年の女性が来てね。マスク越しにひどく嗚咽しているのが分かった。朝日新聞の「論座」に、阪大名誉教授の三島憲一が「自然発生的な弔意こそが本物の名声」と題して、「強制による儀礼の押しつけでは魂の救いは得られない」とか宣ってたけど、これは自然発生的だろ、と思った。

正直、びっくりした。あの列の長さに、現実の「民意」というものを見せつけられた。たぶん左寄りの政治家やメディアの人たちの中にも、「民意」を完全に見誤っていた、と感じた人はいるんじゃないかな。圧倒的な量だった。

――実際、選挙であれだけ勝ち続けていたわけなので。

でも、選挙って投票率も半分くらいだし、どのくらいの「民意」が反映されてるのか、半信半疑のところもあるでしょう? でも、ああいう風に、まちまちな服装をした庶民が並んでいるのを見ると、安倍さんって本当に多くの人に慕われ、支持されてたんだなと思った。

テレビであれだけネガティブキャンペーンをやってれば、安倍さんに悪いイメージがついてもおかしくない。そういうものにも流されないで、わざわざ足を運び、遺影の前で泣き声が漏れているわけでしょう。やっぱり現場に来ないと分からないものがあるよ。

メディアとデモの「共犯関係」はもう通用しない

――「国葬反対」のデモはいましたか。

いたね。本当に団塊世代くらいの老人ばっかり、とまでは言わないけど、年配がかなり目立っていたな。でも、弔意を示す人々の圧倒的な長蛇の列と比べると、人数は本当に少なかった。粛々と並ぶ個人の列と、同窓会みたいに騒がしい白髪の集団では、迫力が違った。

――テレビでデモ隊ばっかり映してるので、かなり多いのかなと思いましたが。

全然。東京新聞が、国葬に合わせて「デモのうねり今も」なんて記事をわざわざ載せていたけど、……デモなんていうのは、あれは一種のテロリズムだからね。

誰かが怒りをぶちまけている様子を、メディアが大げさに取り上げ、権力者を震え上がらせなければデモは成立しない。デモはメディアとの共犯関係で成り立っているんだよ。デモの写真を載せることで、新聞や週刊誌が売れ、視聴率が上がる時代もあった。

でも、いまは新聞や週刊誌を読む人はいないし、若い人はテレビを持っていない。つまり、あの手法はもう成り立たない。なのに、まだ相変わらず有効な手法だと勘違いしてる人たちがいる。

――じゃあ、社会問題を訴えたり、政治に怒りをぶちまけたりしたい人は、どうすればいいんですか。

いや、別に大声で騒ぐな、と言ってるわけじゃない。警察に届け出をすれば、そういうことをする権利はある。でもそういう、陰でメディアと組んだ正当性の疑わしい手法で、世の中に主張を通す時代じゃないということ。何より、そういうところに「民意」の大勢があると勘違いしちゃいけない、ということだな。

サブカル中年は安倍さんに「父権的」な匂いをかぎとった?

――ところで、なんで安倍さんはあんなに人気がないんですか。いや、結果的には「なんであんなにすごい人気があるんですかね」という方が正しかったわけですが。

安倍さんを目の敵にしている人は、お爺さんの岸信介を引きずり下ろした成功体験を持つ老人のほかに、ネットの中年世代だと、なんだろう……いわゆる「サブカル系」の人が目につくよね。中央線系というのかな。あれ、なんなんだろう。

まあ、サブカルは「父権的」なものが大嫌いだからね。安倍さんからも、そういう匂いがしてたんだろう。偉そうな奴を嫌う、一番偉そうな奴ら(笑)。偉そうでなければ、どれだけ無能でもいい。だから岸田はスルーされてる。まったく賛同できないね。

――そもそも国会議員は国家の存在を前提とし、国民と国土を守る使命がある。

でも、実際には自分の選挙が一番大事で、地元に利益を誘導することしか考えていない議員もいっぱいいるわけじゃない。そんな中で安倍さんは防衛や外交といった、これまであまり票にならないところも強化していった。

まあ、選挙に強いからできることだけど。でも、そうだとしても率直に高く評価すべきでしょう。サブカル連中も「国家は市民の敵」「国家なんて要らない」とか口では言っていても、どれだけ恩恵を被っているのか。国家がないとどれだけ困るか。いい歳して甘えてないで、よく考えてみるべきだよね。

――では、「なんであんなに人気があるんですかね」の方はどうでしょう。

正直、よく分からない。アベノミクスの恩恵を被った人は明らかにいただろうけどね。ただ、きょうの嗚咽を聞いて、政策より人柄みたいなものを慕う人が意外と多いのかもしれないな、とふと考えたよ。

そうじゃなきゃ、あんな泣き方はないと思う。もちろん、メディアを通じてのイメージが主だろうけど…いや選挙で握手でもしたのかな。そこはもしかすると「分かる人には分かる」「伝わる人には伝わる」ものがあったのかもしれない。僕には分からないけどね。

「日本人よ、世界の真ん中で咲き誇れ」の何が悪い?

――Aさん自身は、国葬に反対でしたか。

ときの内閣が決めるなら、どちらでもいいと思ってた。それが国のしくみでしょう。騒動の原因はポンコツ岸田の無能に尽きる。野党は国会軽視とか言ってたけど、数としては決まっている。そこで自分たちの存在感を示したかっただけだから、ただのエゴですよ。

――モリカケを理由にした反対は、どう思いました。

僕はモリカケは現地取材もして、何が問題なのか整理してるから、野党のようにイメージだけで「疑惑は深まった」とか言わない。少なくとも忖度と指示は大違いだよ。だから、「生前の悪行を踏まえると国葬にふさわしくない」とも思わない。

それに加えて、国民からは見えにくい防衛や外交に安倍さんが尽力してくれて、本当に助かった。「隣国を刺激した」とか誰の味方なんだよ。まあ、そもそも国と名のつくものはすべて受け入れ難い、「日本スゴイ」が大嫌いなサブカル中年たちは、そこもかなり気に障ったのかもしれないけどね。

――確かに「日本を取り戻す」と言った時期がありました。あんまり頭よさそうな感じはしなかったけど、そこからメッセージを受け取った人たちもいたのでしょうか。

でもさ、次世代のことを考えれば、多少のふかしはあっても「日本スゴイ」で何の問題もないんだよ。欧米だって中韓だって、かなり盛って「自国スゴイ」と言ってる。こんなに自虐的な国民ばっかりなの、日本だけだって、ホントに。それが功を奏した時代もあったけどさ。

多少のカラ元気でもいいから、自信を持てる国民が増えてほしいと、安倍さんは本気で考えていたと思う。そういえば、菅さんも追悼の辞で「日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲き誇れ」が安倍さんの口癖だったと言ってたよね。

僕は安倍さんを全面的に肯定するわけじゃないけど、政治家の究極の使命って、そういう信念で政治をすることだし、国民にそう信じさせることでしょう。そんな政治家って、ほんと見ないよね。僕はそこを支持するし、「国葬」という機会であらためて確認できたことはよかったと思う。

(付記)

ゆうべAさんから電話があった。こちらは風呂からあがってリラックスしているところだったので、出るのをやめようかと思ったが、結局は話を聞いてしまった。ところどころ笑ってしまい、つい「これどこかに書き残しておこうかな」と言ったら、Aさんが承諾してくれたので、その日のうちにまとめて某メディアの編集部に提出しておいたところ、今日になって没が決まったのでブログに書いておく。掲載していたら、そのメディアも私も非難を浴びたことだろう。それをブログに載せたということは、私だけが非難を浴びるリスクを負ったことになる。

2023-3-7 追記

タイトルの「中央線系サブカル中年」を変えようかどうしようかと考えていたんだけど、とりあえずそのままにして、「反体制はカネになる」の邦訳副題を持つ『反逆の神話』の書評のリンクを張っておこう。

だが本書の真骨頂は、そういう反消費主義が生み出した「自分こそは愚かな大衆と違って資本が押しつけてくる画一的な主流文化から自由な左翼なんだ」という自己認識を体現するカウンターカルチャーのあれやこれやが、まさに裏返しのブランド志向として市場で売れる商品を作り出していく姿を描き出しているところだろう。

www.rodo.co.jp

とにかく短い本を書く、そして大した内容でなくても高く売る

肺がやられたせいか、横になっていると咳が出るので、しかたなく椅子に座っている。退屈なのでKIRINJIについてブログとか書いていたが、それも飽きて弱っていると、ふとコロナ前に買った本があったことを思い出した。

岸波龍という人の「本屋めぐり」という、どこの出版社から出ているのかもわからない薄い本で、常盤台のIさんの店頭に並んでいた。ビニールできっちり封がしてある。

立ち読みもできないのか。度胸あるなと感心し、とりあえずレジに持って行ったところ、店主が「あ、ありがとうございます。千円です」とややどもった(ように聞こえた)。言葉の響きから、その金額に値しないかもしれませんけど、いつも毎度申し訳ないです、といったニュアンスを感じた(ただの思い違いかもしれない)。

封を開けてみると予想以上に薄っぺらくて、50ページしかなかった。内容は文字ばかりで、それもスカスカに組んであり、23文字×13行ほど。一ページ300字、最大でも一冊1万5000字ということになる。

普通の新書だと10万字くらいからあるので、10分の1程度の文字数しかない。内容は、自分のお気に入りの本屋を回っているだけの話で、大したものはない(いや、これは明らかに言い過ぎで、たとえば地方から上京して本屋めぐりをしたい人には便利なガイドブックになるかもしれない)。

表紙の下手な絵(この言い方にも棘がある。決して上手なレベルではないが味があるという言い方もあるかもしれない絵)も、自分で描いたようだ。立ち読みしてたら買っていなかったな(これは事実かな)。

これであっさり新書以上の価格をつけるのだから、かなり効率がいい商売ではないか。

……そうか、この手があったか。

筆者の名前を検索してみると、noteがあった。ななめ読みしていると、高3の初めての模擬試験で偏差値28をたたき出したことのある、現在30代後半の社会人の男性らしい。

本屋を営む祖父が本の配達中に熱射病で亡くなり、祖母もどういう形かはわからないが「あとを追い」、残された多額の借金のために母の兄が自己破産したとある。

それなのに、この人が「将来的に、本屋をやってみたいと考えています」という。それも、私家版の詩集を仕入れて売る本屋だと…。ゴーゴリかよ!

そして、埼玉の西武池袋線の沿線で物件を探しているという。できれば練馬区くらいがいいんだろうけど。まあ、とりあえずそれはいいとしよう。

それにしても、1万字ちょっとで本を出してしまう度胸がすばらしい。そもそも、ほとんどの本の欠点は「長すぎること」だ。10万字以上というフォーマットを埋めるために、後半はたいがい薄めたように内容がしょぼくなっていく。

蓮實重彦先生も「短すぎる失敗作というものは存在せず、失敗作のほとんどは、きまって長すぎる作品」と言っていて、三宅唱の「きみの鳥はうたえる」を、

上映時間があと七分半短ければ、真の傑作となっただろう。

と評していた。

kangaeruhito.jp

とにかく短い本を書く、それも大した内容でないものを高く売るというのは、意外といいアイデアかもしれない。

※大した内容でない、というのは語弊がある。「本屋めぐり」には美文などないが、濃い鉛筆でガリガリとデッサンしているような、本質に迫ろうとする簡潔な文章がある。

liondo.thebase.in

KIRINJI(弟脱退後)および参加作品でTop10を選ぶ

考えてみればブログの名称自体がキリンジ由来なのだから、もっとキリンジについて書いておくべきだった。とはいえ、キリンジマニアは世にたくさんいるだろうから、「これは絶対に聴いておきたいTOP10」に加え、とりあえずもう1本くらい書いて少し様子を見ようと思う。

 

1.fugitive

私のキリンジ史観はすでに書いたように、「兄が作ったエロい歌を、歌のうまい弟に無理やり歌わせるプロジェクト」であった。では、弟が脱退した後はどうなるのか。

兄自身が歌うか、だれか他の人に歌わせるしかない。

兄はバンドメンバーに、すでに実績のあるコトリンゴを呼んだ。そして弟脱退後初のアルバムである「11」(2014.8)で、彼女に淫靡なエロソングを歌わせることに成功している。

刑事さん/変わり果てた私を/刑事さん/鑑識が始まるまで/抱きしめていて

この曲を作ったとき、兄はおそらく刑事さんを「高樹さん」と呼ばせるつもりだったのではないか。(ex.高樹さん→コージュさん)

なお、この曲はリアレンジ・アルバム「EXTRA-11」(2015.11)にも所収されているが、個人的にはオリジナルのゴージャスなサウンドの方が好きだ。完成度も異常に高いと思う。

言うまでもないが、コトリンゴは2017年12月にバンドからいち早く脱退している。2016年11月に映画「この世界の片隅に」の音楽を担当するなど多忙を極めたからという理由だったと思うが、そもそも彼女をバンドに引き込めたこと自体が奇跡的なことで「うちゅうひこうしのうた」とともに長く記憶にとどめておきたい。

 

2.The Great Journey feat. RHYMESTER

12thアルバム「ネオ」(2016.8)所収。高樹は「満室! Tonight どこも満室!」と叫んでいる。これを「エイリアンズ」と同じバンド名でやるところが、すさまじい自己変革というかなんというか。

あと、この曲はライムスター抜きのキリンジバージョンもあって、味があってとても素晴らしい。

 

3.時間がない

13thアルバム「愛をあるだけ、すべて」(2018.6)所収。コトリンゴを脱退させてしまった高樹は焦る。あと何回、君と会えるか、と。

シラナイコト/ヤリタイコト/タクサンアルノ

中間部のリフを聞いて、その飽くなき好奇心にあきれ返るとともに、限界全裸中年男性としては、そうだそうだよとじんわり励まされる。もしかすると、とんでもない名曲なのかもしれない。「愛をあるだけ、すべて」、まさに。

YouTube動画に英語のコメントが異様に多いのが興味深い。


4.killer tune kills me feat. YonYon

14thアルバム「cherish」(2019.11)所収。バンド化以降、献身的な貢献をしてきたギターの弓木英梨乃がメインヴォーカルをとり、そこにYonYonの韓国語ラップとヴォーカルをフィーチャー。

女性ヴォーカルに歌わせているけど、例外的にエロソングではない。弓木さんを単独のアイドルとしてプロデュースしたような味わい。素晴らしいサウンド。

他の曲では「やっぱ弟と一緒のころが懐かしい」とか書く人がいたものだが、この曲以降はほとんど見られなくなった。3年で300万再生はKIRINJIには多い方だが、もっと多くていいと思う。

この後、2020年12月初旬にバンド体制でのラストライブ「KIRINJI LIVE 2020」を2日開催し、8年のバンド体制活動に終止符を打つ。

 

5.爆ぜる心臓 feat. Awich

ソロプロジェクト初となる15thアルバム「crepuscular」(2021.12)所収。映画「鳩の撃退法」主題歌。沖縄出身のラッパーAwich(エイウィッチ)をフィーチャー。

YouTubeのコメント「解散するたび加速する堀込高樹なんなん」


6.再会

「crepuscular」からもう一曲。高樹は斜に構えているように見えて、本当に愛を求め飢えているんだなとしんみりする曲。「kirinjiは時代と人々と共に生きているね」というYouTubeのコメントにうなずく。

 

7.Rainy Runway

19th配信限定シングル(2022.6)。矢継ぎ早に新曲をリリースする高樹氏。インタビューではこんなことを言っていて、とても刺激になる。

「よく思うのは、僕らくらいの年齢のアーティストって、今ここで、じっくり腰を据えて、みたいなことをやっていると、1、2年くらいすぐ経っちゃうんですよ」

「一度据えたら、なかなか立てないですから(笑)。なので、〈僕は腰を据えないようにしよう〉と思ったんです」

 

さて、ここまでで最新アルバムにたどり着いてしまったので、それ以外の曲から。ここからは「弟脱退後」ではなく「参加作品」ということになる。


8.乳房の勾配

当時新進気鋭と呼ばれた11人のプロデューサーによるオムニバスアルバム(コンピレーションCD)「Pro-File Of 11 Producers Vol.1」(1998)より、冨田恵一 feat. キリンジによる名曲。おそらくこの時期に、冨田氏とキリンジは出会っている。

体だけさ それが目当てなんだ 悪いかい?

という歌い出しが、まさに「兄が作ったエロい歌を、歌のうまい弟に無理やり歌わせるプロジェクト」というキリンジのコンセプトそのもの。

なお、多くの人を感心させている「あたためられた歯」は、高樹オリジナルではなく、山田詠美の小説に出てくる表現だったはずだが、手元に本がないので確認できない。「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」だったのではないか。

なお、ライブ動画もあるが、こちらには泰行に「無理やり歌わせる」感がなく、嬉々として歌っているのが新鮮である。個人的にはやや物足りないが笑。

 

9.陽の当たる大通り

ピチカート・ファイヴの人気曲を、ピアノとコーラスで大胆に編曲。原曲に潜む壮絶な孤独感を見事にあぶり出している。

逆に軽薄さを仮装した原曲に、ここまでの深遠な世界があったのかと驚かされる。この一曲だけでも、キリンジは後世に残ったのではないか。

 

10.それもきっとしあわせ

鈴木亜美 joins キリンジとしてリリース(2007.3)。作詞作曲は高樹。

歌いたい歌がある/私には描きたい明日がある/そのためになら/そのためになら/不幸になってもかまわない

という歌詞が当時は衝撃的で、当時はそれを歌った鈴木亜美の腹のくくり方がすごいと思っていた。

しかしいまになると、この年になっても最新ヒットソングに埋もれないサウンドを模索して作品を量産し続ける堀込高樹の姿そのものに見えてくる。


ということで、異論があるなし以前に、堀込高樹自身がいまだに猛スピードで突っ走っている中で、ベストだのなんだの言っている場合ではないだろう。

 

キリンジの「これは絶対に聴いておきたいTOP10」を作ってみる

この間、「冠水橋」についてブログを書いたら意外と読まれたので、お盆休みで暇をもてあましている人が多いのではと思い、無粋にも「これは絶対に聴いておきたいキリンジTOP10」を作ってみようと思う。異論は認める。

ちなみに背景としては、90年代の初頭にはすでに社会人になっていて、嫌なことも嫌なこともキリンジに支えてきてもらった世代によるランキングである。読者とは当然違うラインナップだろう。

 

1.野良の虹

キリンジとは何か。いろんな見方があるだろうが、私は「兄が作ったエロい歌を、歌のうまい弟に無理やり歌わせるプロジェクト」と解している。なので1曲目として挙げるべき曲は、

「女の子のヒップは白くて冷たい」

で始まるこの曲とせざるをえないし、弟泰行が抜けたのも「もう兄にエロい歌を無理やり歌わされたくない」という理由だった、と今でも信じている。

それにしても「流星のイレズミをまぶたに刻め/袂を分かつ野良の虹」というサビの意味は分からないけれど、サウンドのさわやかさと相まった切れの良さにはしびれる。

初出はインディーズ1stシングル「キリンジ」(1997.5)。メジャー1stアルバム「ペイパードライヴァーズミュージック」(1998.10)所収。作詞作曲は兄・高樹。

 

2.水とテクノクラート

小室哲哉全盛時代。誰にでも口ずさめる=認識できること。ペンタトニックの3音か5音とシンコペーションを使った、死ぬほど退屈なワンパターンの音楽が蔓延していた。

この曲が登場したのは、そんな時代だったのである。

YouTubeのコメントに「どんな曲でも一度聴けば覚えたという滝廉太郎に聴かせたい(笑)」と書かれているけど、ほんとそうなんだよね。

小室のおざなりな曲の対極にある「凝りすぎてて何回聞いても覚えられねえから絶対に売れねえけど、俺たちが聞きたかったのはこういう音楽なんだよ!」と叫びたくなるキリンジの登場だった。砂漠に水が染み込むように渇望して聞いたものだった。

なお、曲中の「合間縫う腑に落ちないミュージック」とは、個人的にglobeの「Can't Stop Fallin' in Love」ではないかと思っている。

インディーズ2ndシングル「冬のオルカ」(1997.11)所収。作詞作曲は兄・高樹。

 

3.牡牛座ラプソディ

全編意味の分からない歌詞を、歌とサウンドで押し切ってしまう名曲。赤いシャツのバッファロー! 2ndアルバム「47'45''」(1999.7)所収。作詞は兄・高樹、作曲は弟・泰行という共作。

 

4.むすんでひらいて

いまはなき江古田プアハウスでMVが撮られた「グッデイ・グッバイ」もいいが、あえてこちらを。キリンジには明るいナンセンスだけでなく、暗いナンセンスな曲もある。

「むすんでひらいて」は、僧侶の読経のような気味の悪いトランス状態にもっていくところがいい。3rdアルバム「3」(2000.11)所収。作詞作曲は弟・泰行。

むすんでひらいて回る/草木も眠る未明に/浮かばれたい浮かばれたい/さぁむすんでひらいて踊ろう/指切りでついた嘘に/ララバイをララバイを/還るア・カペラ

 

5.エイリアンズ

言わずと知れたキリンジの代表的な人気曲。3rdアルバム「3」(2000.11)所収。作詞作曲は弟・泰行。

彼らが育ったという北坂戸を訪れると「あ、あれが“公団の屋根”か」「これが“バイパスの澄んだ空気”か」とか発見があるのでおすすめ。

なお、北坂戸の駅の周りは不動産物件がかなり安い。「カフェ・キリンジ」とか「キリンジ・ミュージアム」といったものを作れば、世界中からわざわざ人が集まったりするのではないかと思う。誰かやらないか!?

 

6.Drifter

こちらの作詞作曲は兄・高樹。弟の「エイリアンズ」に刺激されたのだろうか。

個人的にはキリンジで最も好きな曲。ひとつのピークを感じさせる。4thアルバム「Fine」(2001.11)所収。

 

7.奴のシャツ

5thアルバム「For Beautiful Human Life」(2003.9)所収。デビュー以来蜜月の関係だったプロデューサー冨田恵一との、とりあえず最後の作品。

ワイルドなサウンドと「遺産があればしばらくしのげる」という最低な歌詞がミスマッチな不朽の名曲。作詞作曲は兄・高樹。このアルバムでは「愛のCoda」(高樹作)もTOP10の有力候補だが、あえて悪ノリのようなこちらを選択。

「ボタンを掛け違えたまま年をとるのは恥ずべきことだ」/親父の通夜でからまれる

 

8.セレーネのセレナーデ

正直、冨田恵一がプロデュースを外れた後の6thアルバム「DODECAGON」(2006.10)と7thアルバム「7-seven-」(2008.3)、8thアルバム「BUOYANCY」(2010.9)から曲を選ぶのは難しい。

一曲一曲を聞くと、やはり彼らの味わいというものがある。一方で、いまひとつ焦点が合っていないというのか。ただ、この理由は冨田さんの不在だけではないと思う。レーベル移籍とか、リーマンショック(2008.9)前後の不穏さとか。

その中で、「BUOYANCY」所収の「セレーネのセレナーデ」は、いわゆるポップス的な型にはまらずに、彼らのよさであるメロディーや歌、サウンドを組み合わせて8分近くに構成するという異色の曲で、彼らの偉業のひとつに数えていいと思う。

 

9.今日の歌

この曲が入った9thアルバム「SUPER VIEW」(2012.11)のリリース直後に、弟泰行の脱退が発表された。

久しぶりに冨田恵一氏がストリングスの編曲で参加した「早春」あり、原発事故をテーマにした「祈れ呪うな」ありとバラエティに富んだ選曲だが、すでに脱退が決まって振り切れたところもあったのではないか。

すでにキリンジで最も好きな曲として「Drifter」を挙げたけれど、この「今日の歌」も捨てがたい。泰行の声は枯れかけているが、力が抜けてやさしさに満ちている。

震災で被害に遭った人たちへの寄り添いの気持ちもあったのだろうが、自分自身がキリンジとしてやりつくしたという感じもあったに違いない。そういう意味では「キリンジ総決算の一曲」と言えるのではないかと思う。

手を離すな/心を寄せあって騒げ/宴の声よ/寄る辺なき日々も/見つけるだろう/忘れた夢が残した/道しるべ

 

10.いつも可愛い

そんなふうに「ナイーヴな人」泰行が脱退するというのに、兄高樹はくびきから解き放たれたようにエロ路線を直進する。

弟が歌わないのなら自分でとばかりに、同じ「SUPER VIEW」の中で「いつも可愛い」を連発する。それを最低というか最高というか、人によるのかもしれない。

 

弟は次の10thアルバム「Ten」(2013.3)を最後に脱退する。

以上がキリンジの私選TOP10だが、この流れを見れば、兄弟時代のアルバムに限られてしまったのは仕方ないと許してもらえるだろうか。なお、兄は「Ten」で弟に「ナイーヴな人々」という歌を贈っている。…あ、実際に贈っているかどうかは知らないが、贈っているとしか思えない名曲だ。

弟脱退後の「KIRINJI」のTOP10は別途作成しようと思う。

キリンジの「冠水橋」を見に行く

先日、2週間の試験期間を坂戸のアパートで過ごした次女が、最終日に喉が痛くなったというので、そのまま閉じこもってもらい、朝から大量の食料と水、それから着替えやお菓子や現金などを渡しにいった。そこでふと、自分にも坂戸に用事があったことを思い出した。

6月にKirinji(といってもいまは堀込高樹ひとり)がインスタライブをしていて、双方向の試みとばかりに視聴者からリクエストをとっていたのだが、自分の曲なのにコードが複雑すぎて全然弾けないという場面があった。そのとき、何かブツブツと言い訳をしていた高樹さんが「冠水橋とか…」とつぶやいたのが耳に残った。

「冠水橋」は兄弟で一緒にやっていたころのキリンジのマイナーな歌で、2004年の「14時過ぎのカゲロウ」のB面に入っていた。デビューから蜜月の関係だったプロデューサーで編曲家の冨田恵一との(いったん)最後の仕事となった。

翌2005年には弟泰行のソロプロジェクト「馬の骨」が始まって、後に小説家のペンネームの由来にもなった「燃え殻」という名曲を出し、

兄高樹も解き放たれたように、全編変態一色の傑作ソロアルバム「Home Ground」をリリースする(いま考えれば「冬来たりなば」もアルバム名も意味深なんだけど)。

冨田さん、僕ら、そろそろやり方変えようと思うんですわ――。そんな会話があったんじゃないだろうか。活動の折り返しを感じさせる「冠水橋」は意味深な歌詞で始まる。

川底に身を潜め/濁流をやり過ごす/長い雨を抜けた朝ならば/水に浅く沈んで/冠水橋はゆらゆらと輝く

さらには、当時は気づかなかったが「風向きが今、変わった」「夢は果てなく/すべてが移ろう/そして思い出す/今日の日を」なんて歌詞もあった。

YouTubeのコメントには「こんな曲、完璧なまでに世の中では売れるはずがない」とある。御意。そして他のコメントを見ると「この曲聴きながら坂戸の島田橋へドライブに行きたいな!」とあるではないか。

そこで検索して、僕の2000年代前半を支えてくれたキリンジの2人は、実は坂戸出身だということをいまさらながらに知った。「エイリアンズ」の

遥か空に航空機(ボーイング)/音もなく/公団の屋根の上/どこへ行く

は、北坂戸駅前の団地を指しているだと? 坂戸は菅野美穂しか産まなかったというのは大きな誤解だった。

公団の屋根の上とは、高層の方だろうか、それとも低層だろうか。

ということで、今日は文字通り「プールサイドは地獄より熱く」(14時過ぎのカゲロウ)の時間帯に合わせて、島田橋に自転車で行ってみた。URの団地群を抜けて国道407号線を渡る。

おお、この先に「バイパスの澄んだ空気と僕の町」(エイリアンズ)と歌われたバイパスがあるんだな。

交差点を脇に入り、細い路地をまっすぐに進む。長屋門を構える立派な家が何軒も建っている。江戸時代から栄えていたのだろうか。川の水かさが増したときには馬も船も通れず、宿場で何日か足止めを食らうこともあったのかもしれない(憶測)。

後から調べて分かったのだが、こんな細い道が「旧川越児玉往還」と呼ばれているのだそうだ。

土手の上り口にお地蔵さんがたくさん立っていた。看板には「この先島田橋 河川増水時通行止」とある。

土手を上がると、草いきれの向こうにその橋はあった。

なかなか立派な木造建築物だ。こちら岸とあちら岸に車が一台ずつ停まって風情を著しく害している。これがなかったら時代を超越した風景になったのに。実際、時代劇などのロケに使われていることもあるそうだ。

島田橋を実際に見てみると興味深いのは、橋を支えるつっかえ棒があるのが上流側だけで、下流側にはないことだ。下流から水が上がってくることなどほぼありえないのに、これはどういうことなのだろうか?

理由はわからないが、上流から樹木などが流れてきたときに、いちおうは橋げたを守るようにはなっているものの、本気で橋本体を守る気がないのではないか。

上流側

下流側

橋が流木をせき止めてしまえば、越辺川(おっぺがわ)の水は周辺に溢れ出てしまう。いざというとき橋は水没し、場合によっては破損しても構わない。川はその上を流れていけばいい。そんなおざなりな感じがいい。

あまりの暑さに閉口して帰ろうとしたらサドルが地獄のように熱く、金玉の裏が焼けた。それにしても隔離の意味でもキリンジの聖地巡礼の意味でも、坂戸に物件を借りておいてよかった。

夕方、次女から陽性が判明したと連絡あり。友達と予定していた旅行もキャンセルしたということで本当に気の毒だ。と思ったら3日後に自分も陽性になった。うかつにモノの受け渡しなどしたからだろうか。

www.nicovideo.jp

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ニコニコ動画に野音でやった「冠水橋」の動画があった。ややテンポを落としていてレコーディングより味がある。「14時過ぎのカゲロウ」も予想以上に盛り上がっていた。キリンジ、愛されているんだなあ。

また、これも後から帰ってきてから知ったことなのだが、旧川越児玉往還を川とは反対側に2キロメートル弱進むと、坂戸市民総合運動公園プールがあり、そこが「14時過ぎのカゲロウ」の舞台だという。

世界があまりにも狭すぎる。そして個別性が普遍性を獲得した素晴らしい例である。このMVも、背景をすべて北坂戸に差し替えればよりしっくりいくことだろう。

GoogleはYahoo!とグルになってコンテンツプロバイダから収奪するプラットフォーマーになっていないか?

クリエイター、カメラマン、カレーをスパイスから作る男は「絶対に付き合ってはいけない3C」と言われているそうだが、そんなことを知らずに、気がつけばコロナ禍でスパイスからカレーを作る男になっていた。

クミンシードをミキサーにかけてパウダーにし、そこにターメリックとチリペッパーのパウダーを混ぜておき、使うときにそれら2:コリアンダーのパウダー1の割合で、玉ねぎと油と一緒によく炒めて香りを出す。水を適宜差しながら、根気よく炒めるといい。

それが終わったら、あまり辛さが得意でない自分の場合はトマト缶を入れて、さらにトマト缶半分強の水を加えて火にかけて、あとは鶏肉とか牛肉とか茄子とかゴーヤとかテキトーに入れてテキトーに煮て出来上がり。生のトマトやトマトケチャップで味を整えてもいい。今回は、ずいぶん前に実家からもらって食べてなかった手作りの甘夏のマーマレードを少し入れてみたら完璧だった。

ところで、この春から玉ねぎが高くて閉口している。

高いだけではない。質も悪い。皮にカビが生えて黒くなっているもの、一部が傷んで柔らかくなっているもの、芽というか芯が大きくなっていて使える部分が少なくなっているもの。新玉ねぎは質も価格も一時よりはマシになってきたけど、普通の玉ねぎはどうにもならん。

そこでふとGoogleニュースで「玉ねぎ」を検索してみたら、ヤバいことになっていた。ピックアップされているニュースに、新聞や雑誌などからYahoo!に配信された記事ばかりが並んでいたからだ。2022年5月26日午後8時現在、1ページ目に表示される玉ねぎニュース10本のうち、6本はYahoo!ニュース経由の記事だった。

言うまでもなく、トップのレタスクラブの記事も、2位のミヤギテレビの記事も、それぞれ自前のサイトにはYahoo!に配信されたのと同じ記事が載っている。したがって、Googleニュースの検索結果には、配信元の記事を表示することが可能なはずなのだ。

www.lettuceclub.net

 

www.mmt-tv.co.jp

*2022年6月25日現在、まだ記事公開1ヶ月の経っていないのに、ミヤギテレビのサイトからこのニュースが削除されてしまった。ヤフーにも見つからない。

しかしGoogleは、Yahoo!に配信された記事を選んで表示する。

もともと自社が制作し配信したニュースなのに、ヤフーニュースに配信されているだけで、まるでヤフーがニュースを作ったかのように「Yahoo!で読んだ!」と言われてガッカリした経験を持つ記者も少なからずいることだろう。

わざわざヤフーにニュースを見に行って、そんな事態に遭遇しているなら残念だが諦めるしかない。しかし、中立な立場で記事の検索結果を表示している(ことが期待されている)Googleで検索したのに、Yahoo!から逃れられないって、なんかおかしくないですか?

奇しくもスマートニュースのSlowNewsと、noteのCakesが相次いでサービス終了を発表。Google News Lab所属の古田大輔さんはこの事態を受けて、ツイッターに「プラットフォームがコンテンツ製作に携わる挑戦に壁」と書いている。

もちろんこの場合の「プラットフォーム」はSlowNewsやCakesなんだけど、意地悪な読み方をすれば、こんなふうにも解せるのではないだろうか。

いくらコンテンツ製作に挑戦してもムダ。儲かるのはプラットフォーム(Yahoo!とGoogle)だけ、という厚い壁ができているから

もちろんこれはタチの悪い因縁でしかないが、そんな文句をつけられたくないのであれば、Googleはグーグルニュースの検索結果に、配信元のサイトの記事を掲載するようにすべきではないだろうか。Yahoo!ニュースに配信された記事は除外して。

少なくともポータルサイトに配信された記事を、Googleが優先的に掲載するなんてことがあってはイカン。独禁法に抵触するかどうか分からないけど、もしそういったところから攻めた方がいいなら考えなければならない。

 

マーケティングの暴力性も考えずに吉野家の元常務個人を「品性下劣」と批判するやつは的外れ

クビになった吉野家の元常務を擁護したい(が炎上が怖くてできない)おじさんもいると思うので代わりに書き飛ばしておくと、社会人向けのマーケティング講座における発言であったあの指摘は、マーケティングの実務を学ぼうとする人にはかなり参考になる可能性があったのではないかということだ。

www.youtube.com

コモディティのスイッチングコストは高い

彼の古巣のP&Gだってそうだけど、洗剤なんてコモディティ化してどれだって大して変わらない、もしかすると水洗いでほとんどの汚れが落ちてしまうのに「この洗剤じゃなくちゃ絶対ダメ!」と思わせる。それに首尾よく成功することでビジネスの永続性が決まってしまう。

マーケティングというのは、そういうインパクトの大きな仕事だ。

カレーの「ココイチ」やペットボトルの「いろはす」なんかも、決して他と比べてうまいわけではない。むしろまずい。でも、なんとなく手頃な味とか環境によさそうとかいう理由で選択が決まってしまい、いちどブランドが決まってしまえばスイッチングコストは意外なほど高い。

スイッチングコストとは、現在利用している製品やサービスから、別の製品やサービスに乗り換える際に負担する金銭的、心理的、手間のこと。要するに人はいちどお気に入りを決めてしまうと、根拠を問わずそれを変えるのが面倒になる。保守的な日本人ならなおのこと。

だからマーケッターは真剣だし、成功したときの成果も報酬も高い。

「18歳までに身につけた偏見」の強固さ

「生娘をシャブ浸け」という表現が不適切なことは、本人だって分かっているに決まっている。だが、牛丼ビジネスを今後も安泰たらしめるために、若いうちに味を覚えさせることの重要性は強調しすぎても、強調しすぎても…しすぎることはない。特に社会人向けのマーケティング講座においては。

実際、私のように若い頃に牛丼を食べなかった人は、歳を経てからもまったく食べない。反対に牛丼をよく食べる人で「牛丼といえば吉野家に限る」といってすき家や松屋に行かない人が会社にもたらす利益は計り知れない。

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」とはアインシュタインの言葉らしいけど、「軽食=牛丼=吉野家」という常識を若い子にいかに植え付けるかが、マーケティングでありブランディングであって、その成否は今後の何十年の事業を左右するものであるということは、どんな表現を駆使しても強調したりない最重要ポイントだった。

それを伝えるために「不適切な表現で不愉快な思いをする方がいたら申し訳ない」という前置きをしたうえで、あえて強調するのは、講師として許容される程度のリップサービスだったといっていい。

本質を突いてさまざまな思考を呼ぶ「シャブ浸け」

もちろん、会社が問題視して即座にクビにすることは自由だ。特に吉野家はいま、若い女性向けのマーケティングを強化しているところなのに、あんな発言が漏れたら逆効果なので強硬姿勢で臨むのは当然。夕方のテレビで10代の女の子たちが「気にせず食べる―笑」と言ってたのには笑ったけどね。

会社の処分は自由だが、マーケティングを学びたい人が抱く「マーケティングって何なんだろう?」という疑問に対する、本質を突いた実務家のひとつの答えであったり、現実を示そうとした当人の意図だったりが、まったく見えなくなってしまうのはどうなんだろうかと思う。

実際、「生娘をシャブ浸け」戦略は、言葉の下品さは脇においても、真意は考えれば考えるほど深くさまざまな思考を呼び、マーケティングを学ぶ上での入り口としてはそれなりに適切な表現なのではないか、という思いは個人的に拭い去れない。きのうから、アートやアーチストにおける「シャブ浸け」とはなんだろうとずっと考えていた。

なので、この元常務を「品性に欠ける」と批判しているやつをみると、バカじゃねえかと思う。品性に欠ける表現をして何が悪いのか。ていうかあんた自身の品性は脇に置くのか。それより今知りたいのは、戦火をくぐり抜けて来た人が見た現実とか本質の方じゃないの? 優等生は死ね。

問題はマーケティングそのもの

ただ、マーケティング(の暴力性)そのものを根本から否定するつもりなら、それは傾聴に値することだ。

例えば「判断力のない未成年向けのマーケティングは禁止すべき」という理由つきで元常務を批判するのであれば、それは正当性があるのかもしれない。そこまで言うならば「人権・ジェンダーの問題」と整合性が取れる。

しかしそのときは「リカちゃんとかプリキュアもダメなの?」ということになるし、そうだというなら世の中ずいぶん退屈になるなと思う。

クリスマスとかバレンタインデーとかも禁止かよ。実際にはどちらも実態は「シャブ浸け」なんだけどね。でも、本当のことは言ってはいけないらしい。「品性に欠ける」から。