合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

池田晶子「残酷人生論」でコロナ騒動のほとぼりを冷ます

いつの間にか普通の書籍紹介になってしまったので、3日目にしてもうしんどくなってきた #ブックカバーチャレンジ。なるほど簡単に続けられるから表紙だけアップするルールになっているのね、と納得するも後戻りはできません。

きょうは先日久しぶりに引っ張り出してきた池田晶子さんの「残酷人生論」にします。表紙の青空の写真は、浜昇さんによるもの。

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池田晶子「残酷人生論」

「考えることは、悩むことではない」

池田さんの本は20代のころよく読みましたが、個人的な感想としては、哲学するとはどういうことなのかということを教わった気がします。池田さんによれば、哲学とは「考えること」で、根本的なことについて正しく疑うということになります。

なので、テレビとかで「俺の哲学」とかよく言いますけど、あれは単なる個人的な考えであり、思想は哲学とかけ離れたものだ…と彼女がどこかで書いていたかどうかは忘れましたが、そういう理解をしています。

「残酷人生論」の中で好きな言葉は、「考えることは、悩むことではない」「救いというのは、ありのままの事実を認めることである」「精神性以外のものを価値と思ったことがない」などいくつもあるのですが、最近思い出したのが、「社会」に関するくだりです。

《人が、そんな得体の知れないものを社会としてその存在を認めているのは、決まっている。それによって不自由と不平を言うことができるからである。何か悪いこと、自分に都合の悪いことや自分が悪いこと、社会が悪いことそれ自体さえ、社会のせいにできるからである。そのためにこそ、人は社会の存在を必要としていると言っていい。》

本書は1998年1月に出ているのですが、まるで最新の週刊誌から拾ってきたような批評性のある一節です。

「情報だけで出来上がった、やはり愚劣な魂」

もちろん人は社会の中で生きている/生かされている側面があり、「国」も「政府」も生身の人間が動かしている限り声をあげるのが民主主義なのだという指摘も分かります。

しかし、まるで自分の人生すべてを社会に支配されているかのように頭の中が「社会」でいっぱいになって、のべつ「社会批判」を叫んで溜飲を下げているような人たちを見ると、社会に対してもう少し冷めたスタンスがあるんじゃないのと思うことが多々あります(社会科学の研究者のように、社会を大前提として生きている人も含めて)。

池田さんのように「私とは」「存在とは」「死とは」ということばかり考えている人からすると、「社会」だの「貨幣」だのといったものに振り回されて生きる人は何をやってるのか、と感じられたのかもしれません。

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なぜ社会の存在を認めるのか

あと、メディアに関わるものとして「情報」のくだりも印象的です。

《たとえば私は思うのだが、より早く、より多く、より価値ある情報を人が使いこなせるようになることと、その人が「善い」魂であるということとは、必ずしも関係がない。情報だけで出来上がった、やはり愚劣な魂は、変わりなく存在している。》

何か訳のわからないものに追い立てられて生きているような気分になったときには、池田さんの本を読むと落ち着きます。

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池田さんのお墓は青山霊園に

ところで池田さんは2007年に46歳で亡くなっているのですが、その直前にコンプライアンスをテーマにした雑誌特集に寄稿してもらうため執筆依頼をしたことがあります(彼女の著作の、道徳と倫理の違いに関する一節を添えて)。

そのとき、しばらく療養をしているので今回のオーダーにはお応えできずすみません、といった趣旨の、揺れるようなか細いボールペンによるファクスが届き、気になったものの週刊新潮の連載が続いているからお元気なんだろうと思っていたら、翌週に訃報がとどきました。最終回にはこんな一節がありました。

《こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。
私は大いに笑った。
こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか。存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きているものは必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。
それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」》

没後に建てられた池田さんのお墓には、実際に「さて死んだのは誰なのか」と彫られているようです。池田さんがお墓の建立を望んだとはとても思えませんが、お墓にそういう仕掛けをしたこと自体はきっと笑って許しているでしょう。

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 新型コロナウイルスの感染拡大とそれへの反応に関わる事柄は確かに社会問題ではあるのでしょう。しかしその一方で、死因はなんであれいつか死ぬ私たちは、この騒動によって生きる姿勢や死生観の根本的なところをないがしろにして生きていくのはもったいない気がします。