合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

SNS時代に「バカ舌」どもが自分の「好み」だけでベラベラとモノを言えるようになったことについて

第11回目のDANROの連載が公開されました。

danro.bar

Yahoo!に配信された分についた2つのコメントが印象的だったので、ピックアップしておきたい。1つはこれ。

あの料理にはこの酒、これにはそれと、あーだこーだ言う人もいるが、結局好きな食べ物と好きな酒を飲むのが一番旨かろうに。
そんな私は酒を嗜みませんので、好きな料理とだいたいコーラです笑

もう1つは、これだ。

こういうのを楽しめる大人な口になれなかったことが、人生の彩りに変化がない退屈な毎日を過ごしている理由なのかも。と感じた。

ところで、伝説的な名ピアニストであるマウリツィオ・ポリーニが来日している。若くして死んだおじがポリーニが大好きで、僕も小さな頃から録音を聴いていたが、正直をいうと好きなピアニストではなかった。

文句なくうまく、完璧ではある。ただ、その音楽の性質があまり好みに合わなかったというだけの話だ。たとえばショパンの夜想曲であれば、ポリーニよりピーター・ゼルキンを選んで聴くというように。

浅田彰は「シューマンを弾くバルト」の中で、ポリーニを次のように評しているが、僕もこの印象にかなり近い。

「ぼくはポリーニを聴きながら、その完璧さをフィッシャー=ディスカウの完璧さと比べていた。彼らの隙のない造形がシューマンのフモールを圧し殺してしまうという皮肉」

「たとえば『クライスレリアーナ』の終曲。シンコペーションを置かれた低音部で、微妙なずれを孕んで打つホロヴィッツの左手と、模範的に正確なポリーニの左手を比べてみること。その差がフモールの生死を決める」

とはいえ、これはあくまでも偏愛から見た極端な評価であって(言うまでもなく浅田彰は、ポリーニの価値をよく理解したうえで言っている)、ポリーニが素晴らしいピアニストであることに疑いはなく、彼の演奏に安易に異論を唱えることなど許されない。

ポリーニが理解できないのであれば、悪いのはポリーニではなく、残念ながら聴き手の方が「バカ舌」なのだ。

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SNS時代に「バカ舌」どもが自分の「好み」だけでベラベラとモノを言えるようになったことで、まともな努力で高みに達している人たちがどれだけ傷つく機会が増えたのかということを想像すると、胸が痛くなる。

ところで、今回のポリーニの来日に当たって、音楽ライターの小田島久恵さんがブログで演奏会評を書いていらっしゃる。これが大変見事で、生でポリーニを聴いたことのない自分としては、うらやましくて仕方なくなった。

ポリーニのショパンは、贅沢品でも空疎な装飾でもない、壮絶なまでの孤独を伝えてくる。「頑張って生きていてよかった」というような大団円の人生には、直線的な時間のストーリーがあるが、ショパンの音楽はそうした物語的な時間から外れたところにいて「この世に存在するということは、いいことであるとも悪いことであるとも言えない」と語っているようだ。

blog.goo.ne.jp

こういうものを読むと、音楽が作曲家だけでは成り立たないのはもちろんのこと、正確に演奏する人だけでも不十分で、やはりまっとうな聴き手がいないことには虚しい、ということを痛感する。

逆にいうと、こういう優れた聴き手、言い換えれば、優れた演奏を深く理解できる能力がある聴衆が存在することによって、演奏家はどれだけ強く勇気づけられ、励まされるものかと思う。

優れた演奏家は、自分が最も厳しい聴衆であるに違いないが、自分以外にもここまで聴いてくれる人がいると知れば、より高みを目指そうという気になるだろう。これはクラシック音楽の世界だけでなく、料理の世界でも酒の世界でも、ウェブコンテンツの世界でも基本的にそうだと思う。

アイラのシングル・モルトを支えているのは、間違いなく飲み手だ。こうでなければいけないという厳しい愛好家がいるから、あそこまでの高みに到達しているのである。世界が「バカ舌」の多数決で動くようになってしまえば、ボウモアもラガヴーリンもこの世からなくなってしまう。

もちろん、コカコーラさえあれば他に何もいらないじゃん、という人も中にはいるだろうが、僕はやっぱりアイラ・モルトにはいつまでも生き残っていてほしいと思う(だから買って飲んでいる)。

そして、取るに足らない個人の「好み」だけで、あるいは売上の規模だけで、ラガヴーリンよりコカコーラの方が、ポリーニより小室哲哉の方が優れていると判断するようなやつらを「バカ舌」と呼んで笑いたいと思う。

ただ、その舌がまともかそうでないかを、どうやって判断するのかと言われれば「分かるやつにしか分からない」となるのがつらいところだ。たとえば「新聞という優れたコンテンツ」というときの、新聞記者の夜郎自大さを思い浮かべると、その危うさがよく分かるだろう。

とはいえ、その条件を抽象的に羅列することは難しくても、たとえば小田島久恵さんのような方をとりあげて、こういう条件を満たしているから信用できる、ということはできそうだ。

編集者はいくら「バカ舌」どもが多数派だからといって、そういうやつらにばかりおもねって目の前の儲けを稼いでいるだけでは、読者がどんどん痩せていき、結局は自分たちの首を締めることになるのではないかと思う。

なお、ページビューでしかメディアの価値を判断できないネット広告代理店は論外で、本当に無能で迷惑な存在でしかない。まあ、彼らは最初から、フェイクなコピーにも簡単に騙される、ものごとの良し悪しを判断できない「バカ舌」をターゲットに商売をしてるのだからしょうがないのだけれど。

世の中を豊かにし、持続可能な社会を作っていくためには、編集者はむしろ「バカ舌」どもの期待を裏切るようなコンテンツを出す、孤高のやせ我慢のような役目も必要ではないかと思うことがある。そのためには、まずは編集者自身の舌が肥えていなければならないのだが。