合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

のん(能年玲奈)さんが語りをした武満徹「系図」のCDが届いた

のん(能年玲奈)さんが語りをした武満徹「系図」のCDが届いた。一度聞いて、この曲の新しい演奏史ができたなとうれしくなった。

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これから繰り返し聴くことで新たな感想が生まれたら追記するけど、第一印象としては、このキャストは大成功だったなと思う。

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実はこの楽譜には「ナレーターは十代半ばの少女によってなされることが希ましい」 と指定されていて、のんさんは、いわばオーバーエイジだ。

しかし武満の指定は、イメージとしては理解できるけれども、現実的ではないと感じた。正解は、のんさんのような無垢な純真さと、女のしたたかな残酷さを併せ持ったような人がやるべきなのだ。

特に「おかあさん」のくだりは、これまでのどの演奏よりも迫力があった。

いまどこにいるの
おかあさん
もうでんしゃにのっているの
まだどこかあかるいところにいるの
だれとはなしをしているの
わたしともはなしをしてほしい
かえってきてほしいいますぐ
ないてもいいからおこっててもいいから

十代の子ではただの不安の訴えになるところを、のんさんが語ると、母の女としての孤独を理解したうえで、まるで母と娘の立場が逆転したかのように、母に対して叱責とも注文とも取れるような言葉を発しているように聴こえる。

また、「とおく」の次の部分には、のんさん自身の確信のようなものが込められていて、こちらも漠然とした希望ではない迫力があった。

どこからかうみのにおいがしてくる
でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける

この部分の溜めは、たっぷりとうたうオケと共に、背筋がゾクッとする場面だ。この感じを出すのは、十代の子ではちょっと難しい。

ちなみに僕は、のんさんの新しい語りではここが注目だろうと事前に書いておいたので、興味がある方は読んでください(笑)

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事務所とのトラブルで一時は芸能活動が危ぶまれたのんさんが「どこからかうみのにおいがしてくる/でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける」と語ることに感慨を覚える人もいるかもしれない。

もうひとつ素晴らしいのは、ライナーノーツに書かれている片山杜秀さんの「チャイコフスキーと武満徹の「ラスト・ソング」」という文章だ。

ぜひCDを買って全文を読んでもらいたいが、一部を引用するとこういうものである。

武満はうたを、社会や国家や世界の「常識の同調圧力」に抗する、自由な個人の最後のよりどころとして考えている。みんなに合わせるからメロディが出てくるのではない。どうしても「私は違うんだ」と外向的に言いたいときに、うたの力に託したくなる。そう武満は言う。チャイコフスキーは、交響曲の常識、市民社会の良識にはまりきらない思いの丈を《悲愴》の終楽章にメロディの力でぶちまけ、武満は、現代音楽の「常識」、あるいは家族に社会や国家の求める「良識」に意義を唱える勇気を《系図》にメロディの力で表出した。

様々な意味で、実に時宜にかなった企画だ。「系図」の語りにのんさんを起用し、それを「悲愴」とカップリングし、ライナーノーツに片山さんを起用した人は、分かってるなと思う。感謝したい。

そういえばJ-POPとかのCDだと、カラオケ用に歌なしのインストバージョンが最後に入ってるじゃないですか。あれ、系図とかでやったら面白いんじゃないですかね。

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