合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

積分の音楽:ファビオ・ルイージとN響の「チャイ5」

これは偏見かもしれないですが、日本のオーケストラも聴衆も、音楽を作品全体ではなく、その瞬間瞬間の響きだけで楽しんでいる、というか、そういう演奏がウケているような気がしてなりません。

そうすると、結局は勢いがあるとか熱い演奏とかいう評に傾くのが常となり、なんだいそんなに熱いのが好きならサウナでも行けやボケという気になってしまうんですね。おっさんはぬるくても、もっと複雑な味わいのものが食いたいんですわ。

そんなふうに常々思っていたので、こんどN響の首席指揮者に就任するファビオ・ルイージがチャイコフスキーの交響曲第5番を選んで演奏したと聞いて、また炎のナントカかよと白けてたんですが、先日テレビで放送されたのを聴いて「ファビオいいな!」と感激してしまいました。

www4.nhk.or.jp

チャイ5はチャイコフスキーの作品の中でも4番と並んで演奏機会が多く、輝かしさや華麗さが大人気なんですが、まあ前述の理由で個人的には頭空っぽのクソ退屈な曲だと思っていました。

でも、ファビオが演奏前のインタビューで「この曲は大いなる絶望の交響曲」と話してて、がぜん興味をもって聴いたところ、全編通して非常に暗くて実にいいんですよね。すごく発見が多くてよかったです。

冒頭のクラリネットの序奏が、こんなにも暗く絶望的に演奏されたことがあったでしょうか。レーピンが描いたヴォルガの船曳きの悲惨な絵が頭に浮かびます。下降音形は大きな溜息のようです。

輝かしい行進曲みたいな最終楽章も、よく聴いてみたら冒頭の暗い序奏そのままのメロディじゃないですか。長調と短調がないまぜになったまま進み、ほとんどスターリンに歓喜の行進曲を強制されたショスタコービチの世界ですよ(もしかしてショスタコ5番の元ネタかと思うくらい)。

6番の悲愴が絶望なのはよく知ってますし、個人的にも大好きです。でも、ファビオの演奏だと、6番に負けず劣らず5番も絶望的なんですよ。外形が明るい曲だからこそ、その裏にある絶望がよけいヤバいものとして迫ってくる。この延長で4番も絶望でやってくれはしまいか?

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対比するために、瞬間瞬間の響きを「微分的」と言い換えると、ファビオのチャイ5は「積分的」で、コンセプトを決めたらそれを最初の1音から最後の1音までひとつひとつ積み重ねて、きちんと貫いてるんですね。思想がある。

まあ、大雑把にいって思想や物語から逃れる微分的な音楽の方が現代的で、積分的なアプローチは古いのかもしれない。でも、仮にそうだとしても、そういうのは積分に飽きたヨーロッパ人がやるべきであって、そういうものがない日本人が積分を経ずに微分をやっても、単に薄っぺらいだけなんじゃないかと思うんですよね。

近代をやってこなかったのに、ポストモダンで日本は世界の最先端だぜ、と誇っているような虚しさ。

絵画の遠近法からクラシック音楽の演奏、国家や制度のあり方に至るまで、日本人は自分らが生きている足元にある近代(の残滓)をちゃんと意識して、それをどういう形であらためて取り込み直したうえで乗り越えるのか、ちゃんと考えた方がいい。

そういう意味で、ヨーロッパの王道のファビオがいま来日してくれるのは、とてもありがたい気がします。こういう音楽が聴きたかったんですわ。

www.youtube.com

※ファビオがデンマーク国立交響楽団を指揮してチャイ5を演奏した動画。N響での演奏スタイルが垣間見られる。

もちろん戦後日本にもサヴァリッシュとかがヨーロッパの王道を教えに来てくれたわけですけど、高度成長期であったこともあって、日本はそれを外形的に、コピー的にキャッチアップしただけだったのではなかったか。

低成長というか、むしろ衰退期にあたっては、ファビオのチャイ5のアプローチを日本人が覚えて、自らの個性にしていくのはとても価値があると思いました。ただファビオは、このアプローチを他のヨーロッパのオケでもやっているので、日本人的にどう消化していくのか課題もあります(こんどは国力が衰えているのでコピーすら怪しい)。

ともかく、この歳になって130年以上前の曲の最もしっくりいく演奏を初めて耳にできるとは思いませんでした。

blog.goo.ne.jp

…などとメモに書き残しておいたところ、音楽ライターの小田島久恵さんが、コロナ禍の代役で人気を呼んだ指揮者ジョン・アクセルロッドをネガティブに評していて、同じようなことを考えていらっしゃるなと思ったので付け加えて公開することにしました。僕が微分/積分と書いていたところは、彼女は分断/統合と書いています。

今回の長い滞在でアクセルロッドはN響とも共演しており、こちらは聴いていないが、N響なら問題がないような気がする。都響がN響っぽい音楽だった。恐れずに言うなら、楽理的な演奏で、チャイコフスキーの4番が細かく分断され、研究されているのが分かった。精巧な部品が合体したような音楽なのだ。バラバラにされた膨大なディテールが統合されていて、隙がない。/それこそが、この音楽を好きになれない理由だった。

変異株のトリアージ論 50歳以上の死亡者はまとめて「寿命」にしてもう数えるのはやめよう

まる3日間、家を出ていない。水曜日に買いだめをして、この1週間はトータルで30分以内しか外に出ていない。

なのに変異株の感染者が、「職場と家との往復しかしていない。あとはコンビニとスーパーくらいしか」とニュースで言っていて、思わず笑ってしまった。そりゃ感染するだろ、危機感なさすぎ。

 

でも、若者よ。君たちは例外だ。10代、20代の子たちの夏を、2年連続で奪うことは無理だし、すべきでもない。

いまや20代の感染者が3分の1を占めているが、これでいいのだ。年老いた「専門家」たちは、こういうところまで配慮できないから、警告に耳を傾けてもらえないのは当然なのだ。

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感染者 年代別の割合(2021年7月20日~26日)

うちの次女はワクチンが打てないまま、五輪選手村へボランティアに通っている。いくら私が家から一歩も出なくても、家庭内感染のリスクはかなりある。それでも私は、次女に「ボランティアはやめなさい」と言うつもりはまったくない。

 

19歳の夏の幸福感は、人の一生を左右するほど貴重なものだからだ。

 

一方、おっさんの夏の重要度は遥かに低く、何年我慢したところで何が変わるわけでもない。おとなしく閉じこもっているのがお似合いだ。

 

すでに人生をそれなりに楽しんだ私は、次女に変異株をうつされて死んでも諦めるべきだ。もしそのときが来たら、こう言い残して喜んで犠牲になろう。

「気にするな、忘れろ。自分の人生を楽しめ」

次女も感染しないに越したことはないが、可能な限りの感染対策をしているわけだし、仮に感染しても重症化リスクは老人より低いはずなので、感染だけを恐れて家に閉じこもっていては失われるものが多すぎる。

 

これから冬にかけて、変異株の大感染が予想されている。ワクチンが効かないとすれば、この夏の比ではなくなるのだろう。

そうなると、治療の優先順位をつけなければならない。トリアージだ。

しかし、「ゼロコロナ」など非現実的な要求を政府に突きつける、臆病で神経質な国民感情を踏まえると、結果的にリスクの高い老人に手厚すぎるコストを掛ける結果になりかねないと懸念している。

 

19歳の人間と、89歳の人間の、どちらを優先して救うべきなのか? そんなの前者に決まっているではないか。人の命に軽重はない、などという無難さに意味はない。

 

人間50年。もう50歳も超えれば、何が理由で死んでもおかしくないのだ。変異株による死亡者数は、50代以上はもう数えるのはやめよう。ぜんぶ「寿命」でいい。あるいはまとめて「運命」ということにしてしまおう。

そしてコストと医療資源を、40代以下、特に10代、20代の若い人たちに全振りしよう。彼らを救い、未来の日本の建て直しを託そう。

 

え?「これまでの日本を作ってきた世代への敬意が足りない」だと? おまいらはただ、経済成長のおこぼれをいただいてきただけじゃないか。言うほど大したことをしてきたわけじゃない。それに、もう十分報酬は受けてきたはずだ。

だいたい、あの五輪のクソ開会式の無様さはなんだ。あれはおまいらそのものじゃないか。

立花隆さんに「知の巨人」はそぐわない

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立花隆さんが亡くなっていた――。そんなニュースを見ながら、そういえば彼に関する思い出があるんだったと思い出した。歳のせいで思い出すのに時間がかかるようになってしまったし、もう二度と思い出さないかもしれないのでメモ。

福利厚生の手厚い出版社に勤めているとき、西片という高級住宅地に住んでいた。前世紀の終わりから12年ほどの間の話だ。

自社ビルが閉まるまで仕事をした後、他社の編集者たちと飲んで(自社の編集者と飲んでも何の学びもなかった)終電で帰ってきて、夜中に春日駅近くの「なか卯」でうどんを食べて、朝方まで仕事をしながら椅子で2時間ほどウトウトしてから、青山の会社までタクシーで行くという生活をしていた。

その「なか卯」の指定席の向かいに、よく立花さんが座っていた。小石川の猫ビルから夜道を歩いてきたのだろう。おばさんのような顔で「またいるな」といった感じの上目遣いでこちらを見ていた。

tabelog.com

立花さんの本で個人的に一番印象に残っているのは『武満徹・音楽創造への旅』という2段組781ページの本で、これはもともと僕が就職して2年目の1992年から6年ほど「文學界」に連載されていた。

しかし連載が終わってもなかなか単行本にならない。「早く出して」と編集部に何度か催促の手紙を書いていたが、出る気配がまったくないので諦めていたところ、連載終了から18年も経った2016年にようやく刊行された。

立花さんが他のノンフィクションライターと違うのは、音楽への理解が深く、武満さんの音楽にも心から共感していたところだと思う。

とはいっても、音楽史的な流れや位置づけを簡潔に整理し鮮やかにさばいてしまう「理解」なら、例えば浅田彰などには全く及ばない。そういう意味で、立花さんに「知の巨人」という言葉はそぐわない気がする。

知という言葉には、記憶力とか、情報の蓄積と体系化のような意味合いがまとわりつく。立花さんはそういう意味でのひけらかす「知」には興味がなかったのではないかと思う。むしろ「好奇心の化け物」とでもいった方がいい。すべてがワタクシゴトなのだ。

『音楽創造への旅』は、単に事実を読みやすく小綺麗にまとめたノンフィクションではない。ただひたすらに聞きたいことを聞き、出版社にテープ起こしをさせて、それに武満さんの本の引用や自分の考えなど手を入れて、発表し(て原稿料を得て)、新しく出てきた疑問をまた聞く、といったしつこい繰り返しによって書かれた断片がまとめられたもの、ということが伺える。

特に前半は、初期の「実験工房」での集まりや、出世作「弦楽のためのレクイエム」の話で、武満さんが楽譜の書き方もままならない中、本当に独学で試行錯誤していた話に割かれているが、もうバランスも巧みさも何もあったものではない。好奇心に突き動かされた生そのもの。あるいは、ただの趣味。

後に百時間ほどのインタビュー(直接会ったり電話だったりしたと思うが)になったと振り返っていたが、こういう仕事、というか羽振りがよかったころの出版ビジネスと一体となった営みができた時代がうらやましい。

小石川の猫ビルも、そういうビジネスモデルが成り立った時代に、売れに売れたお金をビルと本に注ぎ込んでできあがったものだろう。それでも日々のカネの使いみちは、本を買い漁り、書きたいことを書くほかは、夜中に「なか卯」でうどんを啜るくらいだった。

そんな「なか卯」も小石川の再開発で2014年くらいに閉店したようだが、立花さんはその後、どこで夜食を食べていたのだろう。

www.amazon.co.jp

この本はアマゾンレビューも充実したものが多いので、未読の方はそれだけでも見て欲しい。

そういえば武満さんが亡くなったとき、NHKが「武満徹が残したものは~立花隆が伝える作曲家の「愛」~」という追悼番組を放送していた。

武満さんが亡くなる2日前、たまたまFMでバッハの「マタイ受難曲」が流れたのを聞きながら「心身ともに癒やされた」とつぶやき、その翌日に容態が急変したという話をしながら、立花さんは涙を浮かべて絶句した。

それを見て、角栄だの共産党だの脳死だの農協だのと書いてきた立花さんだけど、武満さんのインタビューというか、彼を本当に理解し尊敬していて、彼について書く仕事を大事にしていたんだろうなと思った。

YouTubeを探したら、立花さんが絶句する部分の動画があった。1時間50分過ぎのところだ。

youtu.be

『音楽創造への旅』のあとがきに、連載が単行本化するきっかけとなった女性の悲痛な死について書かれている。がんのために喉が切り裂かれて声が出ないその女性は、死の直前に「あの本お願いね」とくちびるを動かしたという。

ジャーナリストだけが知らない"問題解決"のフレームワーク序説

以前「ジャーナリストだけが知らない"問題解決"のフレームワーク」というタイトルを思いついたが、いろいろと忙しくて書くには至らなかった。

しかしこのたび新田哲史さんがSAKISIRU(サキシル)という新しいメディアを立ち上げ、

「右でも左でもなく前へ進む、リアルな課題解決志向」
「先送りばかりで"ヌルい"日本をもう一度アツくする」

というコンセプトを掲げていたので、特に前者の言葉には親和性があるなと思い(いや後者もか)、お祝いも兼ねてできるだけシンプルに書き飛ばしてみようと思う。

問題解決のフレームワークとは、ある程度のキャリアを積んだサラリーマンなら当たり前に知っていることだし、アクセンチュアの新入社員なら入社半年で教わる基本的な事項である。

なぜなら、ビジネスとは問題解決だからである。

ビジネスに関する組織的な意思決定をおこなうためには、問題をどういう枠組みで位置づけ、どのような理由で何をするかを整理し、関係者でコンセンサスを取ることが必要になる。

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しかし、新聞記者やメディアのライターは、なぜかこういうことを教わることがない。少なくとも、実際の新聞記事でそのような枠組みを意識して書かれていると感じられるものは、ほとんど目につかない。

それは新聞の紙幅の制約から来る型にとらわれている限り無理な話なのだが、ウェブで事実上文字数の制限がなくなってからも、そのような流儀が元からなければ、どこからか湧いてくるわけではない。

逆に、ビジネスで一流の実績を上げる人の文章は、新聞記事を読んだときの「なんか足りないよな」というモヤモヤが少ない。

普段から何かを考えるために必要な情報を収集、分析し、そこから言えることを構造的に組み立てているからだろう。

基本のフレームワーク(A型)

問題解決のフレームワークといっても、実はさほど大したことのないシンプルなものである。文章にすれば、たったこれだけのものに過ぎない。

「問題とは、現状とあるべき姿のギャップであり、問題を解決するためには、その発生要因をつぶすための課題を実行する必要がある」

これを図にすると、以下のようになる。誰かカッコよく清書して(笑)。

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なお、コンサルティングファームでは現状を「AS-IS(アズイズ)」、目指す姿を「TO-BE(トゥービー)」、課題を「TASK」と言ったりする。

細かな点線には「要因は現状の中にある」「課題とは要因をつぶすこと」「問題点の解決が目指す姿の実現につながる」という意味を込めている。

また、図式はしなかったが「要因分析を十分せずに、問題点を直接つぶそうとすることを“対症療法的”といい、根本的な解決につながらない悪手となることが多い」という点を書き添えておきたい。「複数の要因のコンフリクトを解消せよ」ということであり、ここに問題解決のキモがある。

これを仮にA型としておこう。この図でも分かるように、問題解決とは一種の弁証法であって、こんなものはポストモダンの時代には古いなどという意見もあるかもしれないが、まあ少なくとも一度は近代くらい通過しておこうぜ、ということで。

重要なのは、問題が現状と目指す姿との間に発生するものであるということと、問題を解決するためには、発生する要因を分析し、課題でつぶすことで目指す姿を実現すること――という当たり前のことを繰り返しておく。

急進/革新派(B型)

このフレームワークを応用し、「保守」と「革新」について整理してみたい。ざっくり書くと、「急進/革新」とは一般に以下のような図で表すことができる。

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これをB型としよう。「目指す姿」だけが肥大化し、それに伴って「問題点」もやたらと大きくなる。しかし現状や要因分析を踏まえていないので、課題は空疎なものになり、問題は一向に解決しない。

例えば「すべての日本人は無料で大学を卒業させるべきだ」といった壮大な目指す姿を設定し、そこからいきなり「金銭的な理由で大学に進学できないのは問題だ」という問題点を抽出する。

そういう雑な問題の整理からは「すべての若者に進学給付を!」「国は何をやってるんだ!」という雑な課題しか出てこない。

 

守旧派(C型)

今度は「保守」について極端に図式してみよう。革新と対比させるとしたら「守旧」といった方がいいだろうか。

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これをC型としよう。守旧派は既得権者であることが多く、現状追認的である。現状になんら不都合はなく、目指す姿もないので問題点も課題もない。「何が問題なのか分からない」「何の問題も起きていない」という状態である。

上記の大学進学を例に取れば「大学は行きたいやつ、行けるやつが行けばいいのであって、社会が関与する必要などない」というスタンスである。

ジャーナリストやインテリは、このスタンスが大嫌いである。「問題」は存在するに決まっているし、何にでも問題を発見できる人が「問題意識の高い人」とされて、何にでもケチをつけるやつが偉いことになっている。

しかし、彼らの「問題意識」は正しいようで、まったく自明ではありえない。井上陽水の「傘がない」の歌詞を思い出してみて欲しい。

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をして しゃべってる
だけども 問題は今日の雨 傘がない

我が国の将来を憂うジャーナリストにとって、現状は何もかもが「問題」に見えるかもしれないが、「君に逢いに行かなくちゃ」いけない陽水にとって、そんなことより「傘がない」ことが問題なのである。それを「意識が低い」と批判する権利が自分にあると考える人は思い上がっている。

もし「傘がない」ことより優先すべき「我が国の将来の問題」があると考えるなら、民主的なプロセスで合意形成を図らなければならない。

本来はそこに、マスコミが適切に関与すべきなのだ。しかし、日本の革新派は、現象を雑にひと撫でした後に、おざなりで紋切り型の課題提起をして「国は何をやってるんだ!」と繰り返すばかりだ。

その程度の叫びは、日本の守旧派にとっては痛くも痒くもないので、何もかもが現状維持で、問題の芽は破綻寸前まで膨らむまで先送りされる。これが日本のメディア環境ではないだろうか。

雑な革新派がのさばる理由

ところで、なぜジャーナリストは守旧派を断罪し、現状を踏まえず肥大した目指す姿を振り回すB型に陥るのか。

それは、そちらの方が面白い記事になりやすいからである。

本来のジャーナリズムは、A型のようなバランスのよい整理をして、読者に問いかけをするべきだろう。そうすれば読者は、書き手がどんな「目指す姿」を前提に「現状」を捉え、どんな「要因」をつぶすためにどんな「課題」を設定しているかが分かる。

そして「そんな目指す姿なんて誰も頼んでねえよ」だとか「そんな課題はごめんだ」といったツッコミができるのである。あるいはより正しい課題設定に向けて、より的確な要因分析を議論できるようになるのである。

しかし残念なことに、ストラクチャー(構造)を書く記事はシンプルではなくなり、感情が動かされにくい。

したがってB型の偏った記事によって、特殊で悲惨な「現象(トピック)」を取り出して「国は何をやってるんだ!」という紋切り型の批判を繰り返してしまうのである。

右翼も左翼も「革新派」

さて本題の「右でも左でもない前へ」だが、右翼が守旧派で、左翼が革新派だと勘違いしている人がいるかもしれないが、実はそうではない。

右翼も左翼も、理念志向が強く、急進的で「目指す姿」が肥大化している点では似たようなものである。

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例えば右翼による「教育勅語を教科書に載せろ!」「大日本帝国憲法を復活させよ!」といった主張は、現状を踏まえたバランスよい問題設定からは外れている。

これは左翼による「資本家の打倒と労働者のための政権を!」という主張と、内容や方向性は異なっているが、理念肥大型という点では同じである。

その意味ではSAKISIRUの「右でも左でもない」という部分は、分かりにくいかもしれない。とはいえ、上図の整理は特に何かを見て作ったわけではないので、間違いがあるかもしれないが、とりあえず現時点での整理ということで。

必要なのは「正しい保守主義」

要するに「右でも左でもない前へ」とは、守旧派のC型でも、革新派のB型でもなく、正しい意味での「保守主義」――退屈なA型――を選択し、目指す姿について合意形成しながら、現状を踏まえた問題点と課題形成を地道に行うことである。

それがSAKISIRUの掲げる「リアルな課題解決志向」の姿となろう。SAKISIRUに関わりたいと考えるジャーナリストは、普通のビジネスパーソンであれば当たり前に使っている「問題解決のフレームワーク」をぜひ勉強しなおしてほしい。

蛇足ながら付け加えれば、退屈なA型だけでは読まれる記事にはならず、世の中は動かせないのも確かだ。

問題をきちんと位置づけ、現状に目配せをしながらも、手法としてはB型のような煽りも必要だ。そのあたりは、あくまでも「分かって」使えば効果的ではある。

ということで、今日のところはこれくらいにしてやる。

4月27日追記:

井上陽水のくだりをB型の説明ではなくC型に移した方が分かりやすい気がしたので修正した。また、もう少し事例があった方が分かりやすいかもしれないと思ったので、加筆してみることにする。

例えば、郊外のアパートの一室で、母子が餓死しているのが発見されたとする。ジャーナリストが大好きな状況だ。

室内の散乱した様子、近所の人の噂話、親族の動向、行政のコメントなどで、これでもかという悲惨な物語が綴られる。最後に識者が「社会はなぜ彼女たちを救えなかったのか?」などとコメントすれば、もう立派な新聞記事だ。

しかし本来のジャーナリズムは、事実をもって思い込みを覆すことだ。この場合の「事実」とは、問題事象が起きた原因である。

調べてみると、貧困家庭を救済するための制度には縦糸と横糸があるが、この母子は制度のスキマに陥ってしまい、不運にも救済されなかったとしよう。であればマスコミはその力を使って、どんなスキマをどのように埋めるべきなのか、という指摘まですることが望ましい。

そのような、新しい制度を生み出す問題提起と、その背景の事実の掘り起こしと分析に労力が費やされた報道であれば、社会にはやっぱりジャーナリズムは欠かせない、という評価になるはずである。

しかし、この母子間には積年のわだかまりがあって、行政の再三の呼びかけにも耳を貸さず、無理心中のような形で亡くなったという事実があったとすれば。

そのような事件に対し「国は何をしているのか!」と批判しても全く意味がないし、むしろそういう事件を“のぞき趣味”で報じる必要はなく、記事化をやめた方がいいという判断もあるのではないだろうか。

――などと、かつて個人的に見聞きした事例を元に加筆してみたものの、大して分かりやすくもならなかった。

とはいえ、ジャーナリストが口酸っぱく言う「ファクト(事実)」が何のために大事かというと、問題の背景にどんな事実があるのか正確に把握しないと、真の要因がつかめず、課題が的外れになってしまうからということを、この文脈で確認しておくことに意味があるかもしれない。

ファクトのそういう位置づけがないと、どこかの三流ジャーナリストのように「この10文字を確認するために、わざわざ釧路を再訪したんだぜ」といった武勇伝が正当化されてしまうではないか。

本当にその10文字に、それだけの意味はあったのか? ただの自己満足ではないのか? 会社の経費を湯水のように使うより、その10文字を削ってしまった方がよかったのではないのか?

タレイア・クァルテット@安養院

とても満足したコンサートだったので、あえて言葉にするのも億劫だなと思ったけど、悲しいことに記憶というものは薄れてしまい、いつしか消えてしまうものなので、備忘録として。

プロジェクトQ・第16章のバルトーク弦楽四重奏曲シリーズ(2019年2月24日)で初めて聴いて(第5番)、ダントツの迫力で圧倒されてから追っかけているタレイア・クァルテットの演奏会へ。メンバーは20代の女性4人。

会場の安養院は板橋の東新町にあるべらぼうにでかいお寺で、自転車で何度も通りがかったことがあったが、こんなホールがあるとは知らなかった。キンキンキラキラだし、響きも結構いい。

プログラムはヘビーな3曲。住職がクラウドファンディングでスポンサーになったために実現したコンサートとのことだが、住職の趣味の高さを反映しているとしたら感謝しなければいけない。

1曲目はベートーヴェンのセリオーソ。彼女たちの生演奏で聴くと、あらためて難解で変な曲だなあと思った。決して悪い意味ではない。ベテランのカルテットだと、分裂的な曲の異常な感じを際立たせないように自然と丸めてしまうのだ。

1楽章のイントロの激しいユニゾンとか、短調かと思ったら長調になったとか、短調から唐突に長調になったりとか、これまで録音を聴いていてあまり感じなかった違和感がビンビンと伝わってくる。

重ねて書くが、決して悪いことではなくて、ああこの曲のことを自分は全然分かってなかったんだな、実はまだ解けていない謎がたくさんあったんだなということを気づかせてもらった。この歳で伸びしろしかない(笑)

ベートーヴェンが「一般聴衆に聴いてもらおうとは思っていない」と知人宛の手紙で明かした曲だ。彼女たちにとっても、謎がまだ残されたままの演奏だったのかもしれないけれど、まだ20代でこの曲に挑戦しようと考えたのはたくましいし、ぜひ常設のカルテットとして、今後の代表的なレパートリーにして欲しいと思った。

そのときにも、やっぱりこの違和感、異常なただならぬ感じというのは、あえて残しておいてくれた方がいいのかもと思った。もちろん、ベートーヴェンの後期の四重奏曲は難曲揃いなので、セリオーソだけに限る必要はないけど。

2曲目はバルトークの3番。この曲は全楽章休みなしに、かなりの緊張を要するすさまじい曲だけど、もうレパートリーになっていると思う。素晴らしい。チェロの石崎美雨さん、超絶技巧で大奮闘!

セリオーソの後にこれはしんどかったと思うけど、ベートーヴェンとバルトークのカルテットを一緒に聴くと、ぜいたくなセットだなと満たされた気分になった(初めて彼女たちの演奏を聴いたバルトークの5番の最終楽章の唐突な長調――あれはベートーヴェンの運命の勝利の行進曲のパロディだと思う――とセリオーソの親和性を感じた)。

20分の休憩後、モーツァルトの15番。珍しい短調の曲で、モーツァルトといっても決して軽い曲ではない。

タレイアの魅力はそれぞれのプレイヤーが個性と存在感をもって主張するところではあるけれども、モーツァルトではやっぱり1stヴァイオリンの山田香子さんを立てるバランスにした方がいいのかな、と1楽章は思った。

でも楽章が進むにつれて、山田さんが輝きをもって前に出てきてバランスがよくなり、この曲もかなり練って仕上げているなと聴き入ってしまった。

最終楽章の変奏曲は見事で、ヴィオラの渡部咲耶さんと2ndヴァイオリンの二村裕美さんの安定した頼もしさが発揮されていた。

特に、普段は山田さんや石崎さんに寄り添う形で決して出しゃばらない二村さんが弾く速いパッセージが非常に美しく、これからはもっと積極的に前に出て聴かせて欲しいなと思った。

プロジェクトQの後にNHKに出演したりして、タレイア・クァルテットは同世代では頭ひとつ抜けてるけど、ぜひもっと世界に向けて発信してほしいと思う。

そのためには――たとえばバルトークの弦楽四重奏曲の全曲録音をするのはどうだろうか。それをYouTubeで配信するとか。

どれだけすごいことをやっているかは、ストリーミング(音)だけでは分かりにくいので、ぜひ動画で。……うーん、既存の動画がもっと再生されていてもいいと思うんだけど。やっぱり魅力はライブなのかな。

アンコールは、シベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ。

これから結婚とか出産とかのライフイベントで、演奏活動が中断するかもしれないけれど、諸々乗り越えながら、中年になっても続けて欲しいし、自分も生きている限り聴いていたい。

「すべての1PVは等価値」と信じる人が「こたつ記事」地獄に堕ちてゆく

そういえば「こたつ記事」については、年末に「すべてのメディアはこたつ記事に行き着く」という増田(はてな匿名ダイヤリー)がバズっていた。

anond.hatelabo.jp

NHKの「ねほりんぱほりん」は、これを受けて作られたのだろうか。それにしては、放送するのが早すぎる。むしろNHKが宣伝用に打ち上げたと考えた方が(略)

「すべてのメディアはこたつ記事に」は本当か?

それはともかく、この増田について「メディアの状況としては事実」などと肯定している人が多いことに驚いた。その中には、単なる読者や素人ライターではなく、ネットメディアの編集者を名乗る人もいるのだ。

この増田のポイントは「メディア側からしたら、どんな1PVも等しく同じ価値を持っている。」というところである。

要するに「1PVは1PV」ということだが、この考え方は中川淳一郎さんの名著『ウェブはバカと暇人のもの』のベースにもなっている。

ただ、ここにはパラドックスがあり、実は「1PVは1PV」という考えを認めた人が「ウェブはバカと暇人のもの」の世界に堕ちる仕掛けになっている。

結論を言うと「メディア側からしたら、どんな1PVも等しく同じ価値を持っている」というのはウソだ。

そんなわけがないことは、本当は誰にでも分かることだろう。

「1PVは1PV」とは、単なるPV中毒者の言い訳。あるいは、初期のウェブ広告で荒稼ぎした人の自慢話。さもなくば、遅れているメディアビジネス関係者の頭の中に巣食う古い思い込みである。

「金持ちの1PV」と「貧乏人の1PV」では価値が違う

端的に言うと、金持ちの1PVと貧乏人の1PVでは、価値がまったく違う。月とスッポン、金貨とアルミホイルの切れ端くらいの違いである。

とはいえ、「金持ちか貧乏人かは、PVだけで判断できるの?」と疑問を持つ人もいるだろう。

もしあなたが「1PVは1PV」と信じていて、PVの量を集めるために芸能とかエロとか恋愛とかYouTuberラファエルとかの記事を出せば、そこに集まっているのが金持ちなのか貧乏人なのかは見分けることは確かに難しい。

なぜなら、エロバカネタへの興味は、収入や資産額には比例しないからである。

だから、その中にバカな貧乏人が混じってるだろうという想定のもとに、人類の劣情を刺激するエロバカ記事で、とにかくPVの量だけをありったけ集めて、判断力の劣った人が押してくれれば御の字とばかりに、

  • 妻「トイレ崩壊寸前よ!」
  • このオッサン実は65歳!?
  • ほうれい線はアレを塗れば

といった、どうしようもない広告を出すのである。

あるいは、Amebaブログのメルマガを見てみればいい。「カード審査に落ちた人」とか「おまとめローン」とか、そんな内容ばかりだ。

こういう詐欺広告とか情弱向け広告、お金に不自由な人向けの広告は、賢くてまともな人は踏まない。要するに判断力の弱いバカな貧乏人しか踏まないので、そういう読者を集めるための記事を書くわけである。

それが、芸能や恋愛ネタの「こたつ記事」でPVを追う真の目的なのである。

「金持ちの1PV」を集めマネタイズする方法はある

一方、漠然と「金持ち」「貧乏人」で分けようとすると難しいが、例えば「駅前のすき家のバイトに応募しようとしている職歴なし20代後半男性」と「ゴールドマン・サックスのマネージャークラスへの転職を狙ってる30代前半男性」とでは、読むものが全く違うことは明らかだ。

であれば「ゴールドマン・サックス狙いの30男」が集まるコンテンツを作り、そこにSNSでもSEOでもいいから、ターゲットの導線を張っておけばよいのである。

あなたが付き合ってるアドテク業者は無理というかもしれないが、集めた金持ちをマネタイズする方法はいろいろある。

詳しくは種明かししないが、例えばそういう金持ちに会員登録させて、そこにモノやサービスを売ったり、金持ち向けの広告を販売したりする方法もひとつだろう。

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問題は、あなたが組んでいる広告会社なのである。そこにせっかく金持ちが集まっているのに「1PVは1PV」としか考えていないので、貧乏人向けの広告しか出せない。

こたつ記事が蔓延する原因は、PV中毒のメディア運営者と、アホなネット広告代理店にある。

いまメディアで効率よく儲けている人は、ラットレースから降りて、「1PVは1PV」を放棄し、そちらの世界にシフトしている。

だから、「メディア側からしたら、どんな1PVも等しく同じ価値を持っている」なんていう話を聞くと、そいつは何世紀前の話だい?と言いたくなる。

いや、そもそもが広告会社の責任でもなんでもない。あなた自身が「すべての1PVは等価値」と信じているから、「こたつ記事」地獄に堕ちているだけの話である。

「こたつ記事」は、足を使っても頭を使わない「ゲソ記事」より劣るのか? #ねほりんぱほりん

NHK「ねほりんぱほりん」の、こたつ記事特集を見た。

www.nhk.jp

「こたつ」という言葉は、会社から一歩も出ずにネットを検索して素材をかき集めて書くネットメディアを揶揄したものだ。

「こたつ」のポジティブな側面をなぜ見ない

番組は、著作権を侵害し、真偽の怪しいネガティブな「こたつ記事」の作り方のみを取り上げていた。そしてピーク(破綻するきっかけ)をWELQ問題(2017年3月に全記事非公開)にしていて、率直にいうと内容が古いと感じた。

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さらに不満だったのは、「こたつ記事」のポジティブな側面を評価する部分がなかったところだ。

テレビやSNSを見ない人のために「読者が知りたい芸能ネタ」をすばやく提供することは、必ずしも悪くないかも……という点は認められていたが、「こたつ記事」はそんなチャチなものだけではない。

対比するために、番組にもキャラクターとして登場していた「取材は足で稼げ」という反こたつ派が、普段どういうことをしているかというと、

  • 新橋の駅前で酔っ払いに政権批判を言わせる
  • 記者クラブで政治家に通り一遍の質問をする
  • 省庁に出向いてもらった資料とレク(担当官からのレクチャー)で記事をまとめる

そんな程度のことが日常業務を占めている。

そういう「足で稼いだ取材記事」と「こたつ記事」がどう違うのかと言うと、実質を見ればむしろ「こたつ」の方が勝っている部分だってあるのだ。

足は使っても頭を使わない人たち

テレビの報道番組でよく見る場面だが、銀座の街角で「ほんと大変よねえ」などと紋切り型に嘆くマダムなど数人の一般人にインタビューして、何が分かるのだろう。

一方、「こたつ」記者は、足はこたつに入ったままかもしれないが、政権の評価やコロナ対策について、ツイッターで数百、数千の投稿をチェックし、多角的に論点整理をしている。

さて、どっちが有益なものが出てくるだろうか。

省庁レクをそのまま書いた新聞や通信社の記事を見て、なんか変だなあと思って元の資料に当たってみたら、ぜんぜん重要じゃないことについて記者が「書かされてる」ことなんかも頻繁に見られる。経験の浅い若い記者がやらされているのか、やる気を失った窓際記者がおざなりにやっているのかは知らないが。

この件をフェイスブックに投稿したとき、「足を使っているけど頭を使ってない記事がある」という指摘があった。頭がなくて足だけなら、「こたつ記事」に対抗して「ゲソ記事」とでも呼んでやってはどうか。

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新聞記者の多くは「取材」と称して、自分の都合のいいストーリーに合わせて他人がしゃべったことを書くけれど(最終的には「誰々さんがこう言った、ということは事実です」で逃げられるから)、自分なりの資料読みを記事にすることは稀だ。

しかしある程度の専門性を有した記者であれば、省庁のホームページから資料をいち早くダウンロードし、自分で素早く丁寧に読み込めるはずだ。そして気になる点があれば担当官に電話して肉付けした方が、ちゃんとした記事になる。それを基に識者に電話してコメント取れば、ずっとマシなものができるだろう。

もちろん「こたつ」は、ネットメディアが低コストでコンテンツを作るために編み出した苦肉の策であることは確かだ。しかし、それによって従来の「外に出てなんぼ」の無為、無駄とそれを美しく語るロマンをぶっ潰したことの功績は、認めた方がいいと思う。

新聞のデスクこそ「こたつ・オブ・こたつ」

それから先日、朝日新聞がスポーツ新聞の「こたつ記事」について批判していたけど、

www.asahi.com

スポーツ紙がまずかったのは「こたつ」手法の問題ではなく、真偽不明の情報を引用して記事を構成した「編集部の編集能力」の問題であったはずだ。

おそらくネットメディアの記事を読み、勘違いしたスポーツ紙の記者が「俺たちだってそのくらいできるわ」とナメてかかった結果が、ああいうことになったのだと思う。

「こたつ記事」にも他の記事と同じように、センスやスキルが必要に決まっている。

ちなみに、スポーツ新聞を批判した朝日新聞だって、発表資料をあからさまに捻じ曲げた記事をよく出している。この記事など、どうみても最悪な「こたつ記事」の典型例で、他人のことなど言ってる場合ではないのだ。

digital.asahi.com

この記事は、コロナ禍で中退・休学に至った気の毒な学生が多い印象を与える見出しだが、実態はともに昨年より減少している。

スポーツ紙のこたつ化を嘆く記事も、少なくとも見出しをつけた人には、PVに追われるネットやスポーツ新聞を揶揄し、だから彼らは信用できないと新聞優位を訴える意図があったに違いない。

なお、曲解を誘導する見出し(記事タイトル)をつけるのは、たいがい新聞社の編集部内の「デスク」と呼ばれるベテランたちだ。

彼らは若いものに外へ取材に行かせ、集まった原稿をいじくりまわす。まさに、彼らこそ「こたつ・オブ・こたつ」なのだ。デスクだから「洋風こたつ」と呼んでやってもいい。

余談だが、WELQ問題は、確かに特定のメディアが問題提起したけど、その前に鼻の利くツイッタラーがまずい表現を発見し、揶揄する形で取り上げたメディアがあったことを忘れてはいけない。特定のメディアだけの手柄にするのは、歴史修正のような気もする。

 

2021年1月15日追記

思いのほか拡散してしまい、書き飛ばしたところが気になってきた。例示した記者の仕事は、筆者がかつて雑誌記者として現場で新聞記者と話したことや、若手のまま燻って退職した元記者から聞いた愚痴などがベースになっているが、足も頭も使っているきちんとした記者もいることは言うまでもないと思いつつ、念のため付け加えておく。

また「洋風こたつ」のオチに引っ張られてしまったが、新聞紙面の記事の割付を決め、最終的な見出しを確定するのは「整理記者」の仕事というのが正確だ。彼らも内勤の編集職である。

上記で言及した「見出しと内容のズレ」については、外勤記者と整理記者の対立による場合があると指摘しているブログがあったので引用する。

外回りの記者は社内にこもり、見出しだけをつけている整理部の人間を見下し、
整理部は整理部で、その意趣返しとして、
足で稼いできた記事の内容とは違う見出しを付けてしまう。
それに文句を言ってくる記者には、「口出しするな、整理の管轄だ」と冷たく突き放す。

ますます整理部は意固地になって、時に記事を矮小化した見出し、
逆に記事を大袈裟に、ミスリードして世間を扇ぐような見出しをつける。

3dkyoto.blog.fc2.com

同じような話はさまざまなところから耳にすることがあるが、すべての整理部が意固地でミスリードしているわけではない。前職では某大手新聞の整理部長だったNさんの隣で仕事をしたことがあるが、人物的にも能力的にも素晴らしい方で、斜に構えたり意固地になったりすることはなかった。

「醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と言われたユーミンの今をあなたは見たのか?

2020年の印象的なできごとのひとつに、朝日新聞「論座」の暴走があった。

筆者の選定からしてジャーナリズムを放棄した活動家が目につき、事実による検証という本来のジャーナリズムを続けている同じ会社の峯村健司さんなどが気の毒になった。

そんな筆者のひとりが白井聡で、2020年8月30日掲載の「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」を脱稿した高揚感があったのか、29日にユーミン(松任谷由実)についてフェイスブックにこんな投稿をした。

偉大な知性のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。自身の発言の不適切さに思い至り、深く反省をして醜態をさらすより早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。乱暴なことを口走って不快な思いを皆様にさせたなら早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。

www.j-cast.com

白井は当然ながら9月3日にお詫びを投稿することになるのだが、白井を擁護する人たちがツイッターに「私、ユーミン当初から好きでないので、全然気にしてませんて」などとリプライしている。

ハーバー・ビジネス・オンラインには矢部史郎が、こんなことを書いている。

この10年間、民主党政権から自民党長期政権にまたがって、いろいろな矛盾が噴出しました。その大きな変動のなかで、ユーミンは、「素敵なもの」から「醜態をさらすもの」へと、評価が一変したのです。振り返ってみれば、ずいぶん薄っぺらいものをありがたがっていたんだなあと、長い夢から覚めたような感慨をおぼえます。

この記事にも賛同するツイートがあった。

荒井由実の不滅の天才性が理解できない人たちは論外として、ユーミンの政治的な立ち位置、というより安倍晋三の辞任に同情を寄せた行為(の好き嫌い)によって、音楽作品の価値評価をあっさり変える人たちがいることは嘆かわしい。

その点、白井はまだましで、荒井由実が「偉大な知性」であったことは認めている。

とはいえ、鋭く鮮烈な印象を与えるアーチストの初期作品だけを褒め称え、その後の活動で生み出された作品をけなし、あの人は堕落した、落ちぶれた、醜くなったなどと言うことは、極めて凡庸なことである。

この場合の「凡庸」とは、自分だけが分かっているような口ぶりで、誰もが言いそうなことを口走ってしまっているという意味である。

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1981年に発行された「音楽の手帖」の武満徹特集に、村上龍が《「アステリズム」のクレッシェンド》という文章を寄せている。

そこには武満の前で(出世作である)「弦楽のためのレクイエム」が一番好きだと言ったときの話が書かれていて、武満は村上にこう答えたという。

「処女作が一番好きだなんて、それは表現者に対する侮辱ですよ」

村上は「その時は、言われた意味が、わからなかった。」としながら「今は、よくわかる。」という言葉で文章を締めくくっている。

この出会いはおそらく、村上が1976年に「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を獲ってから、1980年に「コインロッカー・ベイビーズ」を刊行するまでの間に起こったのだろう。

もし「コインロッカー」を書き上げた村上が、ファンから「ブルー」が一番好きと言われたら、武満と同じ感情を抱いたに違いない。奮闘の末に「愛と幻想のファシズム」を書きあげた後にも、相変わらず「ブルー」が一番好きと言われたら、もう君は僕のファンをやめてくれと言いたくもなるだろう。

無論、「ブルー」などの初期作品を至高として、その後に書かれたものを弛んだとか堕落したとかいう読者は実在する。しかし、浅田彰が、

「才能というのは、子供っぽい欲望を持ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排除して、いかなるコストもリスクも引き受けてみせる意思だ。」

と指摘したように、作品を生み出すためのコストも失敗して自らの名誉を傷つけるリスクも引き受けた、持続する欲望と強靭な意思こそが才能であって、若いころにたまたま一発当てた人の「才能」などたかが知れている。

一方、衝撃的なデビュー作以降も、前作を超える挑戦をし、成功したり失敗したりし続けた武満や村上は、歴史に残る「才能」と認められるに違いない。

その成否も現時点ですべて確定するわけでもなく、後世に再評価されるものも出てくる。それは「好み」なんてしょぼいものに左右されたものではなく、例えばある「系譜」を見出した人によって、果敢に挑戦した先達として厚く感謝されることもあるだろう。

横道にそれたが、そんなことよりもっと重大な問題は、白井がユーミンの現在の作品をよく見ずに「夭折すべきだった」と言ったとしか考えられないことだ。

例えば2019年11月にYouTubeに公開された「ダンスのように抱き寄せたい」を見てみればいい。そこには、50半ばを過ぎても「子供っぽい欲望」を持ち続け、観客の前で果敢にパフォーマンスするユーミンの姿がある。

ダンスのように もう踊れない
誰もがいつか 気づいてしまうけれども
あなたとなら それでいい
あなたに会えてよかった

www.utamap.com

画面に映るのは、自分を長年愛してくれる老いたファンやバックミュージシャンへの深い敬意、そして、美貌も美声もなく、若さも失われてしまったけれど、与えられた自らの生をおろそかにせず最後まで燃焼させて生き抜こうとするユーミンの真摯な姿勢である。

白井が荒井由実を至高とするのは、ナイーブで良いとしよう。

しかし、もし彼が2000年代の松任谷由美のパフォーマンスに何らかの形で触れたうえで、それでも「醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と思ったのであれば、それは人間としての成熟が何か分からない、気の毒な人というほかない。

よく見てもいないものを「醜態をさらすもの」などと断じて、自らの不明を露呈することほど恥ずかしいことはなかろう。

われわれは、知らないうちにとんでもない高みにいってしまった日本が生んだ本物のエンターテイナーの行く末を、最後まで見届ける幸せを味わおうではないか。

SUZURIで「putoffsystem」オリジナルアイテム販売中

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GMOペパポは運営しているSUZURIでオリジナルアイテムを販売している。筆文字や画は、2000年に岩下鉄くんがいしたにまさきくん宅で書いた拝借している。

ズッキュンが複数ついているものを並べてみる。

鶴馬 手帳型スマホケース

suzuri.jp

なーん Tシャツ(サックス)

suzuri.jp

なーん ミニクリアマルチケース

suzuri.jp

鶴馬 Tシャツ(ホワイト)

suzuri.jp

鶴馬 トートバッグ

suzuri.jp

子皿二枚 Tシャツ(ホワイト)

suzuri.jp

なお、自分でもTシャツを買ってみたが、やや厚手なところはいいのだが、サイズが思ったより大きかったので、注文のときにはユニクロよりひとつ下と考えてもいいのかもしれないと思った。

「putoffsystem」の由来

 ところで、SUZURIショップにもこのブログにもうっかり付けてしまった「putoffsystem」の由来について書いておこう。

大学を卒業して同人誌「メニエール」を出すときに、団体名をputoffsystemにしようと提案したのは僕だ。「メニエール」も、当時話題になった書評誌「リテレール」をもじって僕が提案している。

もとはといえば高校時代に、英単語を覚えるのが苦手なやつがいて、そいつに教えるために問題の出しっこをしていたときのことだ。

その単語帳には「put off」というイディオムの意味を「消す、出す…」などと書いていた。僕が「けす、だす」と読み上げたときに、

「え? ケツ出す?」

と、そいつが聞き返し、それ以来僕の中でputoff=ケツ出すという意味になった。

大学に入ると飲むたびになぜかケツを出すやつらがいて、彼らと仲良くなって映画を撮ったり同人誌を作ったりした。直接言っていないけれども、僕の中では彼らと「putoff」は一体になっていた。

だから僕が一足先に社会人になり(彼らは揃って留年したり中退したりしていた)、団体名を相談されたときには、即座にその言葉を思い出した。

そしてそこに、当時(1990年代初頭)盛り上がりつつあったパソコンやインターネットを象徴する言葉として「system」をつけた。

ここに、putoffsystem、すなわち“脱ぐ組織/組織的に脱ぐ”という名前ができあがった。おそらく当時残り香のあったニューアカの「ディコンストラクション(脱構築)」という言葉も念頭にあったのだろう。

あらためていま、put offという言葉の意味をネットの英語辞書で調べてみると(高校時代にはパソコンもネットもなかった)、〔衣服を〕脱ぐといった意味の他に、

「延ばし延ばしにする」「待たせる」「遅らせる」「先送りする」「後回しにする」「意欲をそぐ」「気を散らせる」「不快にする」「いやにさせる」「うんざりさせる」「言い逃れを言う」「放棄する」「忘れる」「当惑させる」

といった我々にお似合いの意味が並んでおり、実にふさわしいものだと思う。

メンバーたちとは、たまにあったり、疎遠になったり、絶縁したりしているが、何か名前をつけるときにどうにも思いつかない場合には、勝手に使っているというわけである。

「Z世代は多様性を重視している」と宣うメディア関係者への疑問

最近、ネットメディアの関係者たちが、盛んに「ダイバーシティ」(多様性)や「インクルージョン」(包摂)という言葉を使っている。

「ダイバーシティ&インクルージョン」は1996年から2012年に生まれた「ジェネレーションZ」(Z世代)が重視している代表的な価値観とされているものだ。

しかし、本当に「Z世代は多様性を重視している」と言えるのだろうか?

若者が理想主義的になるのは当たり前

まず疑わしいのが、「ダイバーシティ&インクルージョンの重視」が、Z世代特有のものという定説だ。

言い換えれば、彼らにしかない要因によって「ダイバーシティ&インクルージョン」が支えられているとは思えない、ということである。

単純に考えて「ダイバーシティ&インクルージョン」は、社会経験の浅い若者なら誰もが言いそうな話ではないだろうか。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
(金子みすゞ)

War Is Over!(IF YOU WANT IT)
あなたが望めば戦争は終わる。
(ジョン・レノン)

世代を超えて昔から言われていた若者の理想に、大げさなネーミングをしたのが「ダイバーシティ&インクルージョン」のように思えてならない。

Z世代は、最年長者でも24歳。最年少者なら8歳だ。社会経験をほとんど、あるいはまったく積んでない若者である。

若者は現実を知らないので、理念を大事にし(というか、語ろうと思えば理念か、さもなくば、ありものの「問題」について語るしかない)、理想主義的になるのは自然で当たりまえのことだ。それは今も昔も変わらない。

しかし、彼らがいつまでも「みんなちがって、みんないい」などと唱え続けていられるだろうか?

理想だけではサバイブできない

人間、もっとも重要なことは生き残ることだ。いつまでもあると思うな親とカネ。なに不自由なく暮らしてきた坊っちゃん嬢ちゃんも、いつか自力で生きていかなくてはならない。

生きていれば、自分が生き残るためにすることが、まわりまわって他人の不利益となりうることが分かってくる。誰にも迷惑をかけずに生きていくことなどできない。

人生には目的がないが、仕事には目的がある。マニュアルを守れない同僚に「なんで仕事できないくせに、私と同じ給料なのよ」と不満を抱くようになる。

そして上司に「あの子、迷惑なので辞めさせてもらえませんか?」と訴えるのである。

自分以外は敵とまではいわないものの、そうやって若者は、この社会が「ダイバーシティ&インクルージョン」だけでは回っていかないことを学び、現実的な落とし所を探しながら、世間と折り合いをつけていくのである。

それ以前に、自分だけが「ダイバーシティ&インクルージョン」を後生大事にしていてはサバイブできない、という強い危機感に直面することだろう。

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要するに「ダイバーシティ&インクルージョン」は、新人類たる「ジェネレーションZ(Z世代)」が大事にしている新しい価値観、という捉え方は怪しい。

マーケティングのコンサルタント会社か広告代理店が「豊かな社会に生まれ育ったZ世代を攻略するには」などといって編み出したセールストークに過ぎないのではないか。

それも米国生まれの概念を、ハイカラな人たちが日本に輸入しただけにしか見えない。少なくとも、日本の若者がそれで生きていけるとは思えない。

マーケティングの果実は「資本家」が得る

無論、Z世代といわれる人たちが、初の完全なデジタルネイティブであることは事実だ。SNSでの人間関係にもまれながら、新しい価値観を生み出しているというストーリーも魅力的ではある。

しかし、それにしては「ダイバーシティ&インクルージョン」という概念自体はそう新しくなく、むしろ金子みすゞとジョン・レノンの焼き直しなのかと思うほど普遍的というか、世間知らず特有の珍しくもないスローガンに見えてくるのである。

いま、大手ネットメディアに関わる人たちが、盛んに「Z世代」とか「ダイバーシティ&インクルージョン」といった言葉を持ち出している。

そして、その価値観に沿わないものを告発する活動家のような記事を、矢継ぎ早に出している。

その方向性は営業担当にも共有され、クライアント企業に「これからは“ダイバーシティ&インクルージョン”の時代ッスよ」と売り込むプレゼンが行われているのだろう。

digiday.jp

そこで実際に行われていることは、真の「ダイバーシティ&インクルージョン」とはかけ離れた、スローガンを差異のひとつとして消費しドライブする資本主義そのものである。

「ダイバーシティ&インクルージョン」とは、環境問題やSDGs(持続可能な開発目標)と同様に、いわば商品・サービスを作る人たちを制約する足かせのようなものであり、虚業であるメディアはその足かせに美しい飾りをつけて売り物にしようとしている。

恐ろしいのは、その儲けを最終的に巻き上げているのは、足かせ工場に投資して「カネでカネを生んでいる」資本家だということだ。

「ダイバーシティ&インクルージョン」なんて呑気なことを言ってたら、資本家にいいように使われて終わるぞ――。

本当にZ世代の若者のことを考えていたら、大人はそう言わなきゃいけないのではないだろうか。

ジャーナリズムとは「思い込みを事実で覆すこと」であり、活動家とは真逆のやり方のはずである。

コロナ禍の影響もあって、2020年は過去最高のPVを記録したネットメディアが多かったようだ。Zホールディングスの上期決算によると、ヤフーなどの運用型広告の売上収益は前年同期比で19.6%も増えている(下図のYDNは「Yahoo!ディスプレイアドネットワーク」のこと)。

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乱立するメディアの中で差異化する必要もあって、大手ネットメディアは「ダイバシティ&インクルージョン」(多様性と包摂)風の記事を矢継ぎ早に出している。

彼らは、そういうテーマが世の中を良くするという正義を信じている面もあるのだろうが、それだけでなく、ネットでアクセスを取るためにはエロやカネとともに「強いオピニオン」が有効だということを、コロナ禍で実感してしまったのだろう。

意識の高い裕福な消費者にアピールするにも、スポンサー企業はソーシャルグッドなテーマに乗ってイメージアップを図った方がいい。そういうメディアの雰囲気づくりに、フェミニズムやマイノリティの擁護はかなり有効だ。

しかし、オピニオンを前面に打ち出し、事実より優先させれば、それはもう報道とかジャーナリズムではなく「活動家」である。

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もちろんメディアを使った活動家(メディア・アクティビスト)にも存在意義はある。実際自分も、ブラック企業や企業内の理不尽な慣習に対し、活動家的な動きを意識しながら批判記事を出したことは何度もある。

銀行では稟議書に押印するとき、上司に向かって頭を下げるようにやや左に傾けて押さなければならないらしい、と嘲笑する記事を出したときには、多くの読者から「なんだこれ」「バカじゃねえの」というツイートが殺到した。

このような記事の「効果」は、記事で笑ってしまった人や、他人が笑っているのを見てバカバカしさに気づいてしまった人は、もう二度と印鑑を左向きに傾けることができなくなることだ。

ただちにまっすぐ押さなくても、角度をやや弱めることはできる。そのようにして、世の理不尽や不合理を修正していく力がメディアには確かにある。

2020年にあからさまに「活動家」路線に走ったのはハフポストだ。

最近も、トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言がツイッターで嘲笑の的になったとき、わざわざ「原始生活をすればいい」という非現実的な少数意見を取り上げ、そこに気候科学者を引っ張り出して「基本的に無関心な人の反応」とコメントさせる茶番を演じている。

www.huffingtonpost.jp

起きている現象を、事実に基づいて分析する科学的なアプローチからはほど遠い。

わざわざありもしない敵を設定して、そいつは愚かで軽視すべき存在にすぎないと勝利宣言を掲げている様子は、情けないとしか言いようがない。

そこには、新聞社が(単に形式的にではあるが)大事にしてきた両論併記もない。ただの火消し記事であり、典型的な活動家(擁護)記事といっていいだろう。

このような活動家記事が、報道のような顔をして流れてくるようになったのは、日本の社会にとってよくないことだと思う。

いまは広告ビジネス的にもPV的にも調子がいいのだろうが、あまりやりすぎると、新聞が読まれなくなったように、ハフポストもいずれブロック対象になるだろう。

自民党総裁選に出馬した岸田文雄氏が投稿した「夫婦写真」に対し、「強烈な違和感」を示した記事もあった。これはいちおうBLOGカテゴリーに出したものだが、筆者はハフポスト日本版の一員である(しかしなぜかいまは肩書が消えている)。

www.huffingtonpost.jp

記事にはこんな一節がある。

この写真に強烈な違和感を覚えるのは、「政治家の夫を支える控えめで優しい妻を持つ自分」と「そういう妻に感謝する自分たち夫婦の円満な様子」というイメージを、日本のリーダーになる可能性がある政治家が発信することの意味に対して、あまりに無自覚なように思えるからだ。

どんな感想を持とうが自由だが、この写真をもって「性別役割分担意識がどれだけこの国の男女平等を阻害してきたか」を語るのはどうなのか。岸田氏は、普段は大学生と秘書の息子2人と自炊生活を送っており、総裁選の合間に奥さんが久しぶりに食事を作ってねぎらってくれた、というのが事実だ。

そもそもジャーナリズムの役割を「権力の監視」という人がいるが、そんなこと以前に「事実を報じること」というべきだ。

事実に価値があるのは、仮説を検証して確からしさを高めるからだ。わかりやすくいえば、事実は思い込みを崩すのである。

たとえ思い込みであっても、動機が権力批判であれば、事実はある程度犠牲になっても気にしないのが活動家である。一方、ジャーナリズムとは「思い込みを事実で覆すこと」であり、活動家のやり方とは真逆のはずである。

だいたい岸田氏の写真を見て「奥さんが家政婦みたい」なんて、誰だって思いつく。活動家はそれに飛びつき「いかがなものか」と報じて、ターゲットである権力者の足を引っ張る。

これが、これまでの新聞がやってきた「ジャーナリズム」であり、その延長線上にあるハフポストの記事に目くじらを立てる必要はないと思う人もいるかもしれない。

しかし、本当のジャーナリストがやるべきことは「写真では奥さんが家政婦みたいに見えますが、ちょっと調べてみると実はこうだったのです!」と、事実で思い込みを覆すことではなかったのだろうか。

先のブログには、翌日に出された記事のリンクが後に文中に挿入されている。そこでは岸田氏が記者会見で述べた

「あの写真だけを見て『夫婦が対等ではないではないか』という意見は謙虚に受け止めるが、私は平素の生活においても自分のできる家事は分担はしているし、家庭のありようだとご理解いただきたい」

という言葉が紹介されているが、積極的な取材によってブログの思い込みを覆すところまでは至っていない。身内向けの言い訳にも見える、軽い火消し記事だ。

www.huffingtonpost.jp

ハフポはこういう「軽いやけど」をちゃんと教訓にしてくれればいいが、どうも逆に味をしめているのではないかと思う。そして「うちは儲かってるから」とふんぞり返っているハフポおじさんの話をよく聞く。

そんな憂鬱な気分を2020年の年末に抱いたことを、ここに書き残しておこう。

「未来の国では、全員アマチュアの時代が来る」(ロラン・バルト)

YouTubeの醍醐味は、なんといってもアマチュアの投稿だ。

私室の一角で、他人の眼を意識せずに、たったひとりで撮った動画がいい。そして、それをひとり覗き見するようにして視聴するのは、特に楽しい。

もちろん、プロが作り込んだミュージック・ビデオを繰り返し見る楽しさもある。贅沢な体験だ。でもそれは、他の動画配信サービスでもやっていることである。

アマチュアの投稿は、テレビやNetflixなどの動画配信サービスでは見られない。YouTubeでしか味わえないものなのだ。

中でも好物なのは、ピアニストが自室でひとり演奏している様子を、自分で撮って流している動画である。

最近のお気に入りは、Leonhard Deringさんが弾いた、スクリャービンのピアノ・ソナタ4番(1903年)。8分ほどの動画だ。

Deringさんは、シベリア地方のトムスク生まれの29歳。日本の少女まんがに出てきそうな、中性的な雰囲気をもった美しい青年である。

小さめのグランドピアノが置かれた部屋には、アール・ヌーヴォー風のライトスタンドやじゅうたん、カーテンなどの調度品が揃えられ、裕福な家庭ということが分かる。窓からは、世界的な音楽祭が開かれるスイスのルツェルンの緑が見える。湖のある、美しい街だ。

その部屋で彼は、リラックスしきったスタイルでスクリャービンを弾く。

裸足のままペダルを踏み、意外な気軽さで冒頭の和音をポーンと鳴らす。そしてひとつひとつの響きを確かめるように曲を進めていく。

速いパッセージの中の強調したい音を、ときには姿勢を崩し気味になりながら大胆な打鍵で鳴らす。ダイナミクスも極端だ。同じ曲の演奏はYouTubeに何十とあるけれど、明らかにユニークな演奏である。

こういうのを夜中に見つけてひとり聴いていると、ぐいぐい引き込まれて、思わず「ほお」と笑い声が口を突いて出てしまう。心から楽しめる演奏だ、面白い。

しかしルツェルンの彼は、飛行機で12時間以上もかかる極東の島国の中年男が、ニヤニヤして聴いているとは想像もしないだろう。

こういう動画を他人に教えると、どうやって見つけたのかと聞かれることがある。しかし、他の人が手に入れていないおいしいものを、自分だけが手に入れようと思えば、たいがいコツなどないのである。

とにかくひとり、自分自身が手を動かしてトライ&エラーするしかない。思いついた曲名を入れて検索し、アップロード日で並べ替え、数週間前にアップロードされたのに数回しか視聴されていないものも含めて、ひとつずつコツコツ確認していくのである。

数秒ずつ、どんどん視聴していく。冒頭を聴いて面白そうなら、再生バーを中盤、終盤にドラッグして聴いていく。無論ハズレも多い。だが、安心して聴ける演奏を探したいようなやつは、有名ピアニストの名前を加えて検索すればいいだけなのだ。

完全な素人でなくてもいい。名前の知られていないピアニストであってもいい。聴いたことのない演奏が聴きたい。

有名なピアニストでもいいのだ。だがその場合には、誰にも見られていないような環境で、ひとり弾いている、お金を取るお客の前では見せないような自由奔放な演奏が見たい、聴きたい。そんな僕が見たいのは、まさに、あれなのである。

Deringさんは何者だろう。ネットを検索するとコンサートのフライヤーがヒットするように、ヨーロッパで活躍するプロのピアニストのようだ。しかし、少なくとも裸足でステージに上がるピアニストはいない。

なお、アマチュアには素人のほかに、愛好家という意味がある。あの動画には、プロピアニストの彼の音楽愛好家の素顔がある。

個人的には、これをそのままコンサートでやって欲しい、むしろやってくれた方が楽しめる派である。でも、観客の中には 「おい、こっちはカネを払ってるんだよ」 「もっと真面目に弾いてほしいな」 「靴くらい履けよ、プロなんだからさ」 と思う人がいるかもしれない。

彼がメジャーなクラシック音楽レーベルと契約したとしても、こんな演奏を録音することは決してありえない。ベテランのプロデューサーに一喝されて終わりに違いない。なので、諸々のリスクを考えれば、人前でこういう弾き方をする人はいないはずである。

でも、YouTubeなら自由だ。

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未来の国では、全員アマチュアの時代が来る――。この言葉は、村上香住子さんの「メモアール・ア・巴里」という本に書かれている。具体的にはこんな一節だ。

ロラン・バルトを知る人が、一様に証言しているのは、彼が引っ切りなしに退屈する人だった、ということだ。それは子供の頃からの兆候だったらしい。だからそんな彼にとって、いわゆる「プロ」と呼ばれる、退屈もせずに、専門分野にこつこつと打ち込む人間は、ひどく時代遅れに見えたし、彼は「素人」でいることの愉しさを、十分に堪能していた。そして「未来の国では、全員素人の時代が来るはず」とも断言している。

言葉の出典は分からないが、彼女はバルトの知人・友人から話を聴いているので、その中に出てきたのだろう。

ただここでバルトが言う「素人の時代」とはおそらく、いまどきの若い女の子がTikTokで一夜にして何千万もの再生回数を得て、世界的な有名人になることを予言したものではないということだ。

バルトは自らピアノを弾き、特にシューマンを好んだ。そういう、他人に聴かせるためでない、自分だけが作曲家と静かに対話をするような楽しみ方を、彼は「素人=アマチュア=愛好家」と呼んだ気がしてならない。

プロやアマチュアが、自分の楽しみや実験のためだけに録画した動画の中にこそ、物事の愉しみの真髄がある。そして、そんな動画を人知れずこっそりと覗き見て楽しむ行為もまた、バルト的と言えるのではないだろうか。

「結婚」は国家にとって愛の問題ではない

非公開になっていた記事が新DANROでいくつか再掲載されたので、久しぶり反省会をやります。

最新の記事から、“平成の終わりに浅田彰『逃走論』を読み返す”を。

danro.bar

先日、ツイッターを見ていたら、同性愛の視点から、ヘテロを前提とした「結婚」というシステムが古すぎる、という投稿がバズっていた。たぶんこの裁判に絡めたものだろう。

私たちは、愛する人と結婚する権利を求めているのです。また、そのような愛する人との関係を、国から認めてもらいたいと望んでいるのです。そして、愛するパートナーとのかけがえのない関係が、公認されない関係として、社会に受け入れられないことで、日々尊厳が傷つけられているのです。

まあツイッターなんて、別に深く考えてない感覚で投稿したっていいし、むしろそういうものをウォッチする楽しみがある。

しかし「結婚 古すぎる」で検索すると多くのツイートがヒットし、それらがたいがい「LGBT=新しい、正しい」「ヘテロ=古い」という紋切り型にハマってるのをみると、

本気で「古い結婚」を倒そうと思ったら、もうちょっとよく考えないとまずいんじゃないの? とは思う。

特にお気持ちだけでリベラルやってる人には苦言を呈したくなる。

「パラノ・ドライヴ」は近代国家の背骨

この問題を整理するうえで「逃走論」が示しているスキームは、いまだに有効なところがあると思う。パラノ/スキゾというパワーワードだけで捉えていると軽薄なものにしかならないし、本質を捉え損なう。

逃走論はテキストとしていろんな読み方ができるから、「本質」というようなパラノな表現にはそぐわないけれども、書かれていくこと自体はきちんと読解すべきだ。たとえば下記のような箇所。

さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子どもの尻をたたいて、一家の発展をめざす。

これが近代文明を成長させてきた(と「逃走論」が指摘している)「パラノ・ドライヴ」の原理だ。

で、我々が生きている社会システムは、細かいところではいろいろ変わってはきたけれど、骨格の部分は近代的な文明観で作られている。

(蛇足だが、トランプ政権や安倍政権の登場で国際的にも「近代」への揺り戻しが来ている、と言ってもいいのかもしれない。いうまでもなく、それは古い近代国家観で統制を強めながら権勢を拡大する中国への対抗策である。)

つまり、逃走論が批判する「パラノ・ドライヴ」を前提として、いまの日本政府が運営されているといえるだろう。

ざっくり言うと、国家は国力を維持拡大するために、国民総生産を増やして成長していかなければならない。成長すれば社会問題は減少し、成長が止まればさまざまな問題や不満が噴出するのは、否定できない事実だからだ。

「結婚制度」は近代国家のインセンティブ

国民経済を成長させるために、国は「法人」にさまざまなインセンティブを与えている。たぶん「結婚」も、法人と同じようなインセンティブと考えると、理解しやすいのではないかと思う。

つまり「結婚」とは社会にとって、愛の問題でも、パートナーシップの問題でもない。むろんそういう部分も全くないわけではないけれども、基本的には「生殖」の問題である。

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要するに、人口を維持拡大することは、国力の強化と国家の存続にとって、国民一人ひとりが感じているより重要なことなのである。

だから(近代)国家にとって意味のある「結婚」とは、子どもを生み育てるものだけだし、そういう結婚には、法人と同じようにインセンティブを付与する意味がある。

それ以外の結婚は、国家にとってインセンティブを与える理由がない。LGBTの結婚を国が認めるべきだ、という議論を(近代)国家がいまのところまともに取り合わないのは、そういう意味であると思う。

――以上、これは僕個人がそう思っているのではなく、「パラノ・ドライヴ」をベースに整理した「近代」の原則と「結婚」との関係だ。

そういう原理・原則を踏まえずに、生理的・感覚的に結婚のシステムが古いだの新しいだのと言っても、何の解決にもならない。

「シングルマザー」をめぐるジレンマ

むしろ「パラノ・ドライヴ」を一部リニューアルするときに、「男たちが逃げ出した」現代において、LGTBより優先して手当てされるべきは「シングルマザー」といえるだろう。

シングルマザーは、現に子どもを生み育てている。彼女たちは、近代的な国家の国力維持に貢献しているのである。

では、シングルマザーの支援をもっと強化すればいいのかというと、話はそう単純ではない。「パラノ・ドライヴ」の原理自体をできるだけ維持していきたい近代国家としては、スキゾ()な「やり捨て男」がこれ以上増えてもらっては困るからである。

シングルマザーを国家が手厚く支援することは、「ああ、やり捨てしても国がなんとかしてくれるんだ」と考える男へのインセンティブになりうる。

そのあたりがジレンマなのである。それでもLGBTより、近代的な国家にとってシングルマザーの方がずっと重要に違いない。

状況は「逃走論」の予言通りになった

ということで、近代的な「パラノ・ドライヴ」を前提とする国家社会にとって、LGBTは価値として認められていないことを確認したが、話はそれで終わるわけではない。

「逃走論」の話はさらに続くのだが、つまりあの本は、そのようなパラノ・ドライヴを肯定しているわけではなくて、「逃げろや逃げろ、どこまでも」と逃走を煽っているわけである。

その言葉に乗せられたわけではないだろうが、実際、未婚や少子の傾向は止まらないし、止めようがない。状況は「逃走論」の予言そのままになったわけである。

その裂け目から、個人にとっての愛とかパートナーシップとしてLGBTの存在が浮上してくることは必然である。

問題は、LGBTの「結婚」にヘテロと同じようなインセンティブを与える理屈をどうつくるかである。

LGBTは「国家」に承認されたいのか?

選択肢のひとつは、LGBTは個人の愛やパートナーシップの問題なので、「結婚」などといった古臭い国家システムに組み込まれる必要はない、という考え方だ。

それこそが「逃走論」の行き着く先といえるだろう。

もうひとつの選択肢は――とりあえず近代国家システムの枠組みのままに、LGBTカップルの結婚にもヘテロと同じようなインセンティブを設けることだ。

しかし、実際LGBTの人たちは、本当にこれを望んでいるのだろうか?

まあ、冒頭の国への反論には「愛する人との関係を、国から認めてもらいたいと望んでいる」と書いてあるので、そういう方もいるのだろうが、多くの方はそうなのか?

望んでいるとして、パラノ・ドライヴが要請した生殖としての結婚にインセンティブを設けた近代国家システムとのズレを、どう考えるのだろうか。

「そんな難しいことはわかんない。でもヘテロと同じ権利を認めないのは古い」

などとダダをコネても、たぶん近代国家は何の返事もしないだろう。

ようやくアベノマスクの現物に接した際の(好意的な)感想

明日には緊急事態宣言が解除されるといわれる日に、滑り込みでマスクが届きました。文面をみると「みなさまへ」と呼びかけ、不要不急の外出を避けるよう頼んでいます。

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なるほど、テレビもネットもみない人がいますし、政府から全国民に直接メッセージを伝える機会を作ろうと考えたんでしょうね。文書だけでは目をひかないので、マスクを添付してはどうかと。パチンコ屋のティッシュみたいなもんか。

庶民に合わせた施策なので、カネのある頭のいい人は腹が立つかもしれないけど、個人的にはナイストライ、次はうまくやろう案件で、いかにもツッコミやすいネタだけど致命的な問題でもないような気がします。

きょうは久しぶりに仲宿の商店街に自転車で行きましたが、人出はかなり多かったです。しかしみんな律儀にマスクしてるし、スーパーのレジにはポリのシートが厳重に張られてるし、八百屋には「まだ終息してません。入店は一家庭一人」と書いてるし、

みんな国や都の宣言を半分くらい聞きながら、半分くらい自分なりに考えて自分たちの判断で動いてる感じで、日本は現時点では世界的にみてもけっこう民度高いんじゃないかな、と感じました。こういう感想は後に変わるかもしれないですがメモ。

※追記:高須幹弥さんの冷静なコメントを後で発見したが非常に有益だった。