合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

積分の音楽:ファビオ・ルイージとN響の「チャイ5」

これは偏見かもしれないですが、日本のオーケストラも聴衆も、音楽を作品全体ではなく、その瞬間瞬間の響きだけで楽しんでいる、というか、そういう演奏がウケているような気がしてなりません。

そうすると、結局は勢いがあるとか熱い演奏とかいう評に傾くのが常となり、なんだいそんなに熱いのが好きならサウナでも行けやボケという気になってしまうんですね。おっさんはぬるくても、もっと複雑な味わいのものが食いたいんですわ。

そんなふうに常々思っていたので、こんどN響の首席指揮者に就任するファビオ・ルイージがチャイコフスキーの交響曲第5番を選んで演奏したと聞いて、また炎のナントカかよと白けてたんですが、先日テレビで放送されたのを聴いて「ファビオいいな!」と感激してしまいました。

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チャイ5はチャイコフスキーの作品の中でも4番と並んで演奏機会が多く、輝かしさや華麗さが大人気なんですが、まあ前述の理由で個人的には頭空っぽのクソ退屈な曲だと思っていました。

でも、ファビオが演奏前のインタビューで「この曲は大いなる絶望の交響曲」と話してて、がぜん興味をもって聴いたところ、全編通して非常に暗くて実にいいんですよね。すごく発見が多くてよかったです。

冒頭のクラリネットの序奏が、こんなにも暗く絶望的に演奏されたことがあったでしょうか。レーピンが描いたヴォルガの船曳きの悲惨な絵が頭に浮かびます。下降音形は大きな溜息のようです。

輝かしい行進曲みたいな最終楽章も、よく聴いてみたら冒頭の暗い序奏そのままのメロディじゃないですか。長調と短調がないまぜになったまま進み、ほとんどスターリンに歓喜の行進曲を強制されたショスタコービチの世界ですよ(もしかしてショスタコ5番の元ネタかと思うくらい)。

6番の悲愴が絶望なのはよく知ってますし、個人的にも大好きです。でも、ファビオの演奏だと、6番に負けず劣らず5番も絶望的なんですよ。外形が明るい曲だからこそ、その裏にある絶望がよけいヤバいものとして迫ってくる。この延長で4番も絶望でやってくれはしまいか?

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対比するために、瞬間瞬間の響きを「微分的」と言い換えると、ファビオのチャイ5は「積分的」で、コンセプトを決めたらそれを最初の1音から最後の1音までひとつひとつ積み重ねて、きちんと貫いてるんですね。思想がある。

まあ、大雑把にいって思想や物語から逃れる微分的な音楽の方が現代的で、積分的なアプローチは古いのかもしれない。でも、仮にそうだとしても、そういうのは積分に飽きたヨーロッパ人がやるべきであって、そういうものがない日本人が積分を経ずに微分をやっても、単に薄っぺらいだけなんじゃないかと思うんですよね。

近代をやってこなかったのに、ポストモダンで日本は世界の最先端だぜ、と誇っているような虚しさ。

絵画の遠近法からクラシック音楽の演奏、国家や制度のあり方に至るまで、日本人は自分らが生きている足元にある近代(の残滓)をちゃんと意識して、それをどういう形であらためて取り込み直したうえで乗り越えるのか、ちゃんと考えた方がいい。

そういう意味で、ヨーロッパの王道のファビオがいま来日してくれるのは、とてもありがたい気がします。こういう音楽が聴きたかったんですわ。

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※ファビオがデンマーク国立交響楽団を指揮してチャイ5を演奏した動画。N響での演奏スタイルが垣間見られる。

もちろん戦後日本にもサヴァリッシュとかがヨーロッパの王道を教えに来てくれたわけですけど、高度成長期であったこともあって、日本はそれを外形的に、コピー的にキャッチアップしただけだったのではなかったか。

低成長というか、むしろ衰退期にあたっては、ファビオのチャイ5のアプローチを日本人が覚えて、自らの個性にしていくのはとても価値があると思いました。ただファビオは、このアプローチを他のヨーロッパのオケでもやっているので、日本人的にどう消化していくのか課題もあります(こんどは国力が衰えているのでコピーすら怪しい)。

ともかく、この歳になって130年以上前の曲の最もしっくりいく演奏を初めて耳にできるとは思いませんでした。

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…などとメモに書き残しておいたところ、音楽ライターの小田島久恵さんが、コロナ禍の代役で人気を呼んだ指揮者ジョン・アクセルロッドをネガティブに評していて、同じようなことを考えていらっしゃるなと思ったので付け加えて公開することにしました。僕が微分/積分と書いていたところは、彼女は分断/統合と書いています。

今回の長い滞在でアクセルロッドはN響とも共演しており、こちらは聴いていないが、N響なら問題がないような気がする。都響がN響っぽい音楽だった。恐れずに言うなら、楽理的な演奏で、チャイコフスキーの4番が細かく分断され、研究されているのが分かった。精巧な部品が合体したような音楽なのだ。バラバラにされた膨大なディテールが統合されていて、隙がない。/それこそが、この音楽を好きになれない理由だった。