合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

サンソン・フランソワの弾く「レントより遅く」

最近、オフィスで仕事をしながら、イヤフォンで音楽を聴くことが増えた。

販売や飲食、製造ラインでもない限り、大勢の人たちが集まって仕事をする必然性は、いまやほとんどなくなったと言っていい。

にもかかわらず、わざわざ出勤するのだから、イヤフォンで周囲の音を遮断するなんてもってのほか、というのが基本的な考えではある。

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きっかけは、同じオフィスで電話営業が始まったことだ。そのこと自体は決して否定しないが、ただし、発達障害気味の聴覚過敏の私には、この環境は非常に厳しい。

なんせ目の前で話している人よりも、隣の席の会話に耳が行ってしまう。

なので耳を塞ぐのが目的で、それにぴったりの安いカナル式の中華イヤフォンも調達したのだが、そこまでやると、やはり何か流したくなってしまう。

最初はYouTubeの再生リストなどを聴いていたのだが、同じような曲ばかり聴くのに飽きてしまった。そこで手を出したのが、Google Play Musicのラジオだ。

これのメリットは、プレイリストが長くて飽きないことだ。さらに、試しに「キリンジ」のラジオを聴いてみると、初めて聴く割に結構好みに合った曲が流れてくる。

これは「キリンジを聴いている人は、こんな曲も聴いている」というレコメンドだろうか? 最初選んだアーチストや曲とは、まったく毛色が違ったとしても、これもありだなと思うものが多い。

もちろん、馬の骨(旧キリンジの堀込泰行)とかTomita Lab(旧キリンジのアレンジャー)とか、コトリンゴ(新キリンジのメンバー、最近脱退)とかの関係者のほか、聴きなれたクレイジーケンバンドやOriginal LoveやFLIPPER'S GUITARなんかもあるけど、

口ロロ(クチロロ)だとか、くるりだとか、TOKYO No.1 SOUL SET だとか、安藤裕子とか土岐麻子だとか、大橋トリオだとかCymbalsだとか、耳にしたことはあるものの、熱心に聴いたことのないものも推してくる。

そこで気になったのは、このサービスがどれくらいの人に使われているのかということだ。個人的にはものすごく歓迎だけど、新しい音楽に触れる喜びを感じる人はどれだけ多いのか。

正直、クラシック音楽の領域を見ていても、お客が入るのは、だいたい有名な定番曲ばかりだ。なぜかというと、彼らは音楽が好きというよりかは「知っている曲が流れると嬉しい」「聴きなれた曲が聴きなれたように演奏されるのが好き」という種族だからだ。

「そんなの当たり前でしょ?」とか「それだって音楽の楽しみ方よ。別にいいじゃない」とかいう人は、上で書いたような新しい音楽のレコメンドに、さほど価値を感じないだろう。

まったく、知的に怠惰としか言いようがない。

それを聞いて、あんたたちは「人は誰もが自分と同じだと思うなよ」と腹を立てるだろう。しかし、それは「知的に怠惰」に対する何の反論にもなっていないことに気づいてほしい。

……横道に逸れてしまったが、そういうことでGoogle Play Musicの「ラジオ」は、音楽に対する好奇心を、とても上手に満たしてくれる素晴らしいサービスだということだ。

しかし、話はそこで終わらない。実はGoogle Play Musicには、「Feeling Lucky」というメニューもある。これは過去に聴いた音楽の好みから、自動的にプレイリストを作成してくれるサービスだ。

このサービスのしくみについては、よく分からない。ラジオの場合は人手を介したセットリストかもしれないが、こちらはそうはいかない。もしかすると、噂のAI(人工知能)が関わっているのだろうか……。

ともかく、これをやってみて驚いたのは、自分では大して聴いていたつもりがなかったDebussy(ドビュッシー)の音楽を、Google Play Musicがやたらと推してくることである。

特に驚いたのは、ピアノ曲の「La Plus Que Lente(レントより遅く)」を複数のピアニストで勧めてきたことだ。

「おい、君。ちょっとこの曲、聴き比べてくれたまえ」

とでも言われているようだ。

さらに驚いた(本日3回目)のは、GoogleのAIとやらに促されて聴き比べているうちに、それぞれの演奏の違いが際立ち始めたことだ。

特にSamson Francois(サンソン・フランソワ)が弾く「レントより遅く」は別格である。

フランソワといえばラヴェル弾きとして有名で、私も愛聴していたが、ドビュッシーがここまで良いとは思っていなかった。

「レントより遅く」は、もしかするとバリトンサックスのジェリー・マリガンの演奏で知っている人の方が多いかもしれない。マリガンは、ドビュッシーのエキゾチックなメロディを、ジャズに取り込んだ。

それ自体は、ジャズファンからしたら、なかなか興味深い試みだったのかもしれないが、フランソワの演奏を聴いたいま、単なる思いつきの愚行としか思えないものとなった。

「レントより遅く」の真髄は、メロディ(右手)とベース(左手)の不協和にある。変ト長調(フラット6つ)という深い情感を醸し出す調性の中で、右手が優美なメロディーを奏で始めようとする3つ目の音に、左手のベースが唐突な音をいきなりぶつけてくるのである。

この部分について、ピアニスト金子一朗氏も気づき、こう解説する。

ドビュッシーは、たとえば、出だしで、ges-mollのI9の和音ともとれるし、伴奏はges-moll、メロディーはDes-durという複調ともとれる、微妙な節回しを使い、mollとdurの世界を揺れ動くことでそういった大人の複雑な世界を表現しています。また、歌いまわしにしても、曲中の至る所でテンポや強弱の変化に関する指示があるのですが、これを忠実に守ることで、あだっぽさと上品さのぎりぎりの両立に成功しています。

ちなみにmollは短調、durは長調のこと。つまり金子氏の指摘を整理すると、

「レントより遅く」の出だしは、伴奏は短調でメロディは長調という「複調」ともとれる微妙な節回しになっており、短調と長調の世界を揺れ動くことで大人の複雑な世界を表現している。

これはとても的確な指摘だと思う。ところがマリガンの演奏では、メロディはドビュッシーだが、ハーモニーはジャズになっており、この不協和は採用されていない。作曲の意図を反故にされたドビュッシーが聴いたら、腹を立てるに違いないと思う所以だ。

また、あえて動画を引用しないが、日本人の「お稽古ごと」風の演奏では、右手と左手は、それぞれ無造作に、単に“しっかりと”弾かれてしまう。

多くの日本人ピアニストは、楽譜に書いてある音を鍵盤で漏れなく押す、というアリバイにしか興味がない。それは「休まず、遅れず、働かず」という、日本の公務員やサラリーマンのモットーにも似ている。

さて、上記金子氏は、この曲の弾き方について「演奏上困難なところは、まず、メロディーを趣味良く歌いながら、中声部の作る和声の変化、骨格となるバスの進行をすべてバランスよく表現することです」と指摘していて、これも非常に的を射ている。

しかしフランソワは、左手のバス(ベース)を適度に前面に押し出しつつ、そこに中声部の和音を鳴らしはするものの、メロディーが「趣味良く歌」うことを放棄してしまう。

不穏な短調のハーモニーが漂うことで、「あれ、長調じゃなかったの?」と思わせつつ、霧の合間からメロディーが霞んで見え隠れする――。そんな水墨画に影響を受けたようなドビュッシーの音響世界を、フランソワは大胆に表現しているわけである。ひとつ上のJacques Rouvierの演奏(こちらもひとつの名演のスタイルではあるけれど)と比べてみてほしい。

この演奏でフランソワの魅力に取り憑かれた人は、おそらくフランソワのドビュッシー全集のアルバムを聴きに行くことだろう。そしてフランソワの別の演奏――ショパンやラヴェルなど――を聴いたり、また別の人――ギーゼキングやリヒテル――の演奏でドビュッシーを聴いたりするだろう。

そう考えると、Google Play Musicの「Feeling Lucky」とは、底知れぬ音楽沼への誘惑装置であり、他の人には絶対におすすめできない機能である。押すなよ、絶対押すなよ。ダメ、絶対!

2020年12月27日追記:Google Play MusicからYouTube Musicへの移管に際して、「Feeling lucky」機能はなくなってしまったらしい。「ラジオ」は残っていた。