合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

はあちゅう著『「自分」を仕事にする生き方』の全ページに風を通してみたけど「みんな不安だから大丈夫」なのか?

遅まきながら、はあちゅうの『「自分」を仕事にする生き方』(幻冬舎)を手に入れ、苦心して268ページすべてに風を通してみたので、メモを残しておきたい。

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ネットを通じて、はあちゅうのイメージは固まっていたが、本によって改めて裏付けられた個所が2つあった。

「川崎の田舎者」という劣等感

ひとつめは、彼女の「港区女子」志向の裏側に「川崎女」コンプレックスの田舎臭さを感じていたが、その源流は中学時代に遡るということだ。

彼女は高校受験に備えて自由が丘の進学塾に通っていたが、そこで都心育ちの同世代の子たちと初めて出会い、強いショックと憧れを抱いたという。

それが持ち前のミーハー心や負けず嫌いと相まって、ああいうキャラが形成され始めたのかと納得した。

クラスの大半がファストフード店に行ってしまった後、教室に残ってお弁当を食べていると、イソップ物語にあった田舎のねずみと町のねずみの話が頭をよぎりました。町のねずみの食べ物は、私の目にはとてもかっこよく映りました。(24p)

個人的には、多摩川を隔ててはいるものの、東急線なら10分ちょっとで自由が丘に行ける川崎(武蔵小杉の今井中)を田舎だとは思わない。

そうではなく、田舎臭いとは、傍から見ると身の丈に合わないことをしているのに、本人が自覚していない痛々しさを指しているのだ。旭川出身の梅木雄平氏が、ツイッターで「港区男子」を執拗にアピールしている様子が代表例である。

なお、本人にコンプレックスがあっても別に悪くはない。筆者のコンプレックスのあり方を楽しみながら、作品を読むことだってある(三島由紀夫とか)。

しかし、それを覆い隠せていると本人が思い込んでいるものを読みたいとは思わない。それは下手な詐欺みたいなものだからだ。

「作家」という肩書に抱く全能感

もうひとつは、彼女がこだわる「作家」の肩書に、かなり全能感のあるイメージを抱いているということだ。

彼女が「私はライターじゃない」と主張していることは知られているが、本書では、有名人が自分の交友関係や食べたものの話を仕事に結びつけていることを羨ましがって、こう書いている。

こんなにも効率よくオンとオフをつなげられたら、生きているだけで丸儲けじゃないか、とお得好きの血が騒ぎました。

普通「生きているだけで丸儲け」(本はこの部分がゴシックになっている)とは、人は命があるだけで十分なのだから、欲張りすぎることはない、という文脈で用いられることが多い。

しかし彼女は「息するだけで大儲け」という意味で使っているようだ。

はあちゅうと白樺派の類似点

ただし作家は、最初から「息するだけで大儲け」の存在だったわけではない。文章を書き、それを版元に買ってもらうことで糊口をしのぐ人たちであって、元々はそう楽な生き方ではなかったはずだ。

そんな作家像を大きく変えたのが、大正期に活躍した「白樺派」である。ここで、はあちゅうと白樺派の類似点を挙げてみたい。

(1) 新しいメディアの活用

白樺派の作家たちは自前の「白樺」という文芸・美術雑誌を発行し、そのメディアを使って同人の人気を集めた。

中には不細工な作家もいたが、白樺メンバーというだけで良家の子女にモテまくり、影響力を行使し続けた。

SNS時代に、既存の出版メディアに依らずに名を挙げてきたはあちゅうは、この点で白樺派に似ている。

(2) 抑圧からの解放

はあちゅうの本の「はじめに」の書き出しは、こうだ。

「個人の時代」だと散々言われるようになったけれど、それは夢を叶える才能がある人だけに関係のある話だと思っている人が、まだまだ多いのではないでしょうか。(3p)

え、いまさら「個人の時代」? まるで白樺派の主張を現代仮名づかいにしたのかと目を疑うほどだが、彼女は自らの家庭環境について、こう書いている。

最近、父と母は熟年離婚しました。私が子供の頃から二人はずっと仲が悪かったのでもっと早くに離婚したほうがよかったと思うのですが、離婚を考えるタイミングで常にネックになったのは母の経済力です。(略)自分の力でお金を稼がないと自分の人生の舵取りさえ出来ないのだと、これまた、私の頭の深い部分にインプットされました。(19p)

白樺派が反抗したのは、家父長制的な明治精神だった。本書にも、はあちゅう自身や愛する母親が、商社勤めの父親を中心とした家の都合にいかに振り回されてきたかということが書かれている。

「個人の時代」の訴えの裏には、必ず強い抑圧を感じる個人がある(彼女のやってることの動機はすべて父親に対する復讐、と見てみることはできないだろうか)。

(3) 描写の薄さ

はあちゅうの本は小説ではないのだから、描写は不要なのかもしれない。

しかし、子どもの頃から本が大好きで、大量に本を読んでいる人であれば、自分が考えていることなど、たかがしれており、もしも自分なりに言いたいことを伝えようとすれば、それなりの表現の工夫が必要と考えてしかるべきだと思うのだが、本書にはそのような形跡が見られない。

もしや、はあちゅうは「私が考えたことを私が書けば、それは自動的に私だけの作品になる」と思い込んでいるのだろうか。

『「自分」を仕事にする生き方』には、それに類するようなことも書かれているけど、それってまるで白樺派じゃないか。

白樺派の志賀直哉は「小説の神様」などと言われているが、実際に書かれたものは、いま読むと、とても大したものとは思えない。

例えば彼の代表作と言われる「城の崎にて」などは、いかにも説教臭い内容だが、文章自体はその場の思いつきをただ垂れ流しているだけと思われてならない。

段々と薄暗くなって来た。いつまで往っても、先の角はあった。もうここらで引きかえそうと思った。自分は何気なく傍の流れを見た。向う側の斜めに水から出ている半畳敷程の石に黒い小さいものがいた。いもりだ。未だ濡れていて、それはいい色をしていた。頭を下に傾斜から流れへ臨んで、じつとしていた。体から滴れた水が黒く乾いた石へ一寸程流れている。自分はそれを何気なく、踞んで見ていた。自分は先程いもりは嫌いでなくなった。蜥蜴は多少好きだ。屋守は虫の中でも最も嫌いだ。いもりは好きでも嫌いでもない。

このように、全編「お前は何様のつもりだ?」という感じなのだが、有名作家となった志賀が、自分がそのときに「たまたま見たもの」「そのとき思いついたこと」を書けばすなわちそれが小説になってしまうと勘違いした全能感にあふれる文章である。

特に「それはいい色をしていた。」という独善的な描写(の欠如)が、読者を猛烈に苛立たせる。

たぶんこれが、白樺派が理想とした『「自分」を仕事にする生き方』なんだと思うが、この苛立ちが、はあちゅう本の読後感と非常に似通っていたというのが正直な感想だ。

建前と本音のズレ

――と、ここまで書いて、自分は何を書いているのかと我に返った。他の人がアマゾンのレビューに書いたように、「まず、読んでも読んでも、中身が平凡なのだ」で済ませればいいのではないか、と。

ただ、やっぱり気になるのは、「本当に好きなことは好きすぎてきづけないんです。」(25p)などと結論めいて書いているところは、本人としてはどうでもよくて、実は前述したような劣等感(SFC高校でも「周りの生活レベルの高さにびびる。世の中って不公平だと痛感」という経験をしたようだ)とか、「作家」という肩書にこだわりたい本当の理由のようなものが、心の中の多くを占めているのではないかと気がかりで仕方がない。

読んでいて、エピソード的な部分と、あたかもそこから導き出されたような顔をしている結論部分が、大きく食い違っているような気がしてならないのだ。

書籍がタイトルや目次を通じて主張する建前と、書かれている内容の現実が、大きくずれている。書くべきことの裂け目から、書きたいことが漏れている。本来、この本を読む人は、このズレを味わうべきではないか。

質と量の混同

この他にも、普段の彼女のSNSの投稿を見ていれば、「白樺派的」な要素をいくらでも指摘できるだろう。

批判を許さない自己承認欲求の高さ。私小説的な自分語り。ジャーナリスティック=量的な成功と、質的な成功の混同。容姿と恋愛(性欲)への執着……。

どれをとっても、「自己の確立」の名のもとに、強烈な自己顕示欲を振りまいた白樺派に似ている。

ひとつ補足しておくとすれば、はあちゅうの書くものに描写がない理由は明らかである。描写を細かくしていくと、読者は面倒くさくなり、離れていく。雑誌の部数やSNSのフォロワー数を追求すれば、自然とそうなるのだ。

 描写とは、言い換えれば書かれたものを読むときに感じる凹凸(おうとつ)であり、その手触りの肌理(きめ)が書かれたものの質を決めるものである。

しかし彼女の書くものは、悪い意味でツルツルとしていて、すべてがあらすじ的である。これが「はあちゅうは作家ではなく、どう見てもライター」と批判する人の根拠になっている。

はあちゅうと対談したモデルの田中里奈さんは、ブログやSNSでの投稿で気をつけていることとして、自分の読者やフォロワーは「基本的には脳みそにさっと通すように見る人が多いと思います」と捉えていると明かしている。

まさにそのとおりで、フォロワー数を増やすためには、ある種の質を落とさなければならない。質を落とすことで獲得した量は、例えばマーケティング会社などにとっては「高い質」に見えることもあるだろう(実際にはエンゲージメントの低いフォロワー数は無意味だ)。

しかし、外形的な数字による評価と、(文芸的、あるいはエンタメ的な意味での)質的な要素のギャップは大きく、はあちゅうがこれに苦しむのは時間の問題だと思う。

後ろの帯に書かれた「でも、みんな不安だから大丈夫。」というコピーは、はあちゅうが自分自身に言い聞かせていることのように見えてならない。

はあちゅうが本当に代表作を書きたいのであれば、「脳みそにさっと通す」だけのファンを裏切り、自分が勝ち組の仮面の下にたぎらせてきた怨念を燃料として、溜まったものを吐き出すしかない。