合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

遠野凪子の「系図」に思うことなど

*「#のん さんによる #武満徹「Family Tree」への期待」を改題。

のん(能年玲奈)さんが武満徹の「系図」の語り手をつとめる録音の発売が、この10月に決まったとネットで話題になっている。

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初演以来、20年以上にわたってこの曲の価値を訴えてきた自分としては、のんさんの影響力によって曲の知名度が上がり、聴く人が増えることはとても喜ばしいと思う。

その一方で、俺があれだけ言っても聴かなかったくせに、なんだいまさら騒ぎやがってお前らは、と悪態をつきたくなる気分がまったくない、といっては嘘になる。

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そこで、録音の発売まで少し時間があるようなので、予習情報を整理して、みなさんの期待を高める文章を書き散らしておきたい。

ただ、期待が高まり過ぎてしまって、実際に聞いてみたら「あれ? こんな感じだったの?」ということもありうるので、もしかすると、それを防ぐための情報の方が重要なのかもしれない。

初演の苦労に思いを馳せる

「系図」は、谷川俊太郎の「はだか」という詩を女の子が語り、そこに武満の美しい音楽が絡む曲だ。

邦題は堅苦しいが、英題は「Family Tree(ファミリー・トゥリー)」で、こっちの方が曲のイメージに合っている。

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録音を聴くとナレーションとか朗読といった印象を受けるけれど、日本初演の遠野凪子さんが本を持たずに語っている様子を映像で見ると、やはり語りである。

遠野さんは当時15歳。観客席を見回して語る様子は、きっと周囲から天才子役と呼ばれていたのだろうなと想像させる堂々たるものだ。

その一方で、硬すぎて脆い、薄いガラスのような危うさも感じる。それが抜擢の決め手になったのだろうけれど。

特徴ある抑揚をつけた語りは、初演当時は評価が分かれていて、批判も少なくなかったが、たぶん彼女自身のアイデアではなく、誰かが演出したのだと思う。その指示を一貫してきちんと守っているんだろうなと感じる。

ちなみに、この曲は2016年のN響公演で、女優の山口まゆさんの語りでも演奏されている。そこには演出はあまり感じられず、自然体で語られていた。

もしかすると、遠野さんのときの、ある種の「反省」があったのかもしれない。そう考えると切なくなる。

勝手な想像だが、その後の遠野さんの人生を考えると、このころに大人たちが押し付けた過剰な処女性みたいなものを彼女自身が持て余してしまい、成長するにしたがって反発を感じてしまったのではないか、などと心配してしまう。

その点、のんさんの場合は、実年齢が25歳になっていることもあって(楽譜に「ナレーターは十代半ばの少女によってなされることが希ましい」 と書かれているのに)、遠野さんのような危うさはないのかもしれないけれど、柔軟性のある強靭な天然さで、少女の世界を打ち出してくれたらいいと思う。

なお、過去には岩城宏之がオーケストラ・アンサンブル金沢を指揮した録音があり、そのときの語りは吉行和子さん(67歳)だった。

武満音楽の「美しさ」

で、肝心の武満の音楽だけれども、1995年の初演当時の評価は芳しくなかった。ひとことで言うと、美しすぎて音楽として堕落しているという評価だった。当時、音大に通うある女性は、日本初演の録音を聴いて、こう吐き捨てた。

「結局、武満はロマン派だったってことでしょ?」

現代音楽が抽象的な切り詰めた厳しさを追求している中で、武満だってあれだけ厳しい音楽を書いてきたのに、最後の最後でなんだあれは、という評価だったのだと思う。

ちなみに彼女が代わりに称揚していたのは、「線の音楽」の近藤譲だった。

それに対して私は、潔癖症のあなたには不純に思えるかもしれないけれど、武満の中には元から常に官能的といえるほど美しくゴージャスなメロディやハーモニーが横溢していて、それを出すときに禁欲的に厳しいスタンスで書いたものと、そうでないものがあるだけの話だと反論した。

その論拠として、武満が作曲家を志したのは戦時中の防空壕で聴いたシャンソンであったことや、テレビドラマ向けに書いた「波の盆」の音楽の美しさなどを話したが、彼女は怒ってそのまま帰ってしまい、二度と会うことはなかった。

もちろん、死を間近にして武満がストイックでいられなかったとか、それだけの体力が残されていなかったというのはあるかもしれない。

ただ、厳しいと評された若い頃の曲の中にだって、彼女が嫌ったロマン派的な世界はあったはずだ。私の反論は、あなたはそれを聴けていなかったのか、という批判に受け取られていたおそれはある。

私たちは決裂したが、その間には武満の晩年の音楽が「美しすぎる」という共通理解があったのは確かだ。

「不協和音」の分からない人たち

ただ、一般の人がこの曲を聴いたときにどう思うかは分からない。

なぜなら、世の中には不協和音を一切認めない人たちがいるからだ。音楽は「音を楽しむもの」なんだから、わざわざ不協和音を耳にして不快になる必要がないという主張だ。

でも、音楽が複雑な世界を表現しようとすれば、自ずと響きは複雑になり、いわゆるドミソ的な音楽から外れていくのは当然である。

たとえば、恋愛によって引き起こされる感情は、ある方向からは甘美だけれど、別方向から見れば一種の精神的なストレスに違いない。不協和音がすべて不快にしか聴こえないのは、恋愛の心理的葛藤なしに、自分の欲望を単純にかなえようとするのと同じようなものだ。

マーラーのアダージェットが美しい音楽であることに異論を挟む人は多くないと思うが、一音一音丁寧に聴いてみれば、胸が締め付けられるタイミングで、マーラーは不協和音を使っているはずである。

これと同じように、武満の音楽も、そういう必然性をもって不協和音を使っていて、聴き慣れた人であればその繊細な使い分けが理解できるのだが、聴き慣れない人には、全部同じような不協和音に感じられるかもしれないというおそれはある。

のんさんの語りで期待を膨らませて音楽を聴いてみたら、訳の分からない雑音だらけだったという感想を抱く人もいるかもしれない。

対策としては、いまから時間をかけて現代音楽を聴き込んで耳を慣らしておく――といった必要はなく、ただ子どものように虚心に音に耳を傾ければいいのだと思う。

汚れのない耳には、武満の音楽は、少なくとも「不思議な響き」という程度には聴こえるだろう。それが大人になって、ロックだのJ-POPだのといった特定の音楽に過剰に適応してしまうと、「これつまんない」「ノリが悪い」ということになる。

「すきなひとがいるといいな」のタイミング

もうひとつ書いておくとすれば、音楽と語りがどうなっているかも、注目というか、個人的には心配だ。おそらく楽譜には、五線譜の下に語りのセリフが書かれているのだと思うが、演奏によって語りの入り方が異なっている。

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アメリカでの初演を担当し、日本では山口まゆさんで再演したレナード・スラットキンの演奏(前出の動画)は、それなりの権威があるはずだ。彼は最終曲の「とおく」で、いちど音楽を切った後、

ここよりももっととおいところで

というフレーズを入れ、そこからさらに一息、間を入れてから次の詩を語らせている。

そのとき、ひとりでいいからすきなひとがいるといいな
そのひとはもうしんでてもいいから
どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな

そして、再び音楽が始まり、そこに「どこからかうみのにおいがしてくる・・・」という詩がかぶさる構成になっている。

ところが小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラと遠野さんとの録音では、「ここよりももっととおいところで」までは音楽に乗せて語り、音楽が切れて静寂が訪れた後に、

そのとき、ひとりでいいからすきなひとがいるといいな

と言わせている。

このタイミングの違いで曲の印象はかなり変わってくる。私が支持するのは圧倒的に後者だ。今回の録音がどちらを採用するのか気になる。

また、事務所とのトラブルで一時は芸能活動が危ぶまれたのんさんが「どこからかうみのにおいがしてくる/でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける」と語ることに感慨を覚える人もいるかもしれない。

バッティストーニは間違いなく天才

そういえば、音楽好きにとって、アンドレア・バッティストーニがオーケストラの指揮を執ることも大きな注目だ。まだ31歳。生演奏は聴いていないけれど、録音やラジオでのライブ演奏を聴いて、こういう力のある若手が日本のオケを演奏しにきてくれるなんて、本当にありがたいなと思う。

特におすすめしたいのが、2013年に東京フィルハーモニックと演奏したレスピーギ「ローマの祭」のライブ録音だ。

26歳の若者が、大人の演奏家たちをここまで引っ張り回すとは驚き。18分からの最終曲には口をあんぐりあけてしまう。これについていける日本のオケのうまさも捨てたものではない。

「Family Tree」とともに収録された、チャイコフスキーの「悲愴」もいい演奏に違いないと期待している。むしろこっちで「悲愴ファン」が増えてくれると、クラシック音楽界としては波及効果が大きいだろうと思う。

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